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「肉体への侵入」

 昨日に引き続き、最近聴講した「都市伝説」の文化人類学を取り上げたい。前回の「ケンタッキー・フライドラット」という少しひやっとする都市伝説には「安全な内部」、「危険な外部」、「侵入」というモチーフがあった。

 前回の話は「肉体=安全な内部」に「食べ物という形をとって本来食べるべきではない何か=危険な外部」が「侵入」してくる話として捉えることができる。今日紹介する「体内に入った蛇」もまた同じモチーフを持っている。

ある日、男の子が二人ハイキングに出かけたんだ。水筒には水がたっぷり入っていた。まもなく彼らは水をすっかり飲んでしまって、小川を捜し始めた。とてものどが渇いていたからなんだ。ようやく小川を見つけると、男の子が一人かがみ込んで飲んだ。だが、その子は飲んだとたんに、何か固いものを飲み込んだと叫びながら、飛び上がった。見下ろすと、そこは一面蛇の卵だらけさ。彼らはそこのことをあまり気にもとめないで、その日のバイキングが終わると家に帰った。一年ほど経つと、何か固いものを飲み込んだと言った男の子は、ものすごく食欲が増したけど、いつも弱々しかった。とうとう、母親が何とかしなければと言って彼を医者に連れて行った。そこで、医者は彼を診て、胃の中のものを吸い出すことにしたんだ。医者が男の子の胃から10フィートの蛇を吸い出した時、その子は腰を抜かしたってさ。 『消えるヒッチハイカー』p151

 「侵入」するものはこれまで食物の形をとっていたけれど、必ずしもそうした形をとるわけでも、さらには口から入ってくるとも限らない例がある。

 ある女性がKマートでブラウスを見ていた。すると、ピンで刺されたような気がした。少なくとも、その時はそう思ったのだ。とても痛んだので家へ帰った。その後腕がはれてきたので医者を呼んだ。医者は彼女を診察した後、ピンに刺されたんじゃない、蛇に噛まれたんだ、と言った。Kマートが調べを受けた。すると、2匹の蛇がブラウスから見つかった。そのブラウスは香港から輸入したものなので、蛇は確かにそのブラウスの中にいたとわかった。『消えるヒッチハイカー』p237

 何年か前、ひとりの娘が不思議な死に方をしました。死んだ後で、彼女の髪の中にクモの巣が発見され、クモに噛まれて死んだことが明らかになりました。彼女は、その大きくふくらませた髪を他の少女たちと張り合い、毎日キチンと撫で付け、ヘアスプレーをかけ、何ヶ月もの間洗わずにいた結果、こうなったのです。 「毛布の中の蛇」『うわさ もっとも古いメディア』p158

 つまり、これらは大雑把に言えば「肉体への侵入」なのだ。そしてこれこそがメタ・モチーフの出発点なのだそう。というのも、私たちの身体こそが最もミニマムな「内部」だからだ。いや、それでまだ不十分である。もっと言えば、私たちの身体は「内部」と「外部」を分ける境界の役割をなしているのだ。どういうことだろう。

 我々はまず、我々自身の身体を自分のものとしなければならない。その次にようやく、境界は外側へと少しずつ、拡大される。それは外側の世界、つまり他者と、そして他者を取り巻く世界を認識する過程でもある「なによりもまず、他者とはわたしたちの肉体そのものなのだ」※。

 前回の話で登場した車の「内部」と「外部」などは境界が拡大された結果生まれたのだ。そして最後の一文はジャック・ラカンの「鏡像段階理論」でも言い換えることができる。

 人は生まれて間もない時期には「これが私だ」というイメージを抱かない。もっと言えば、まとまりのある「自分」というイメージを持っておらず、「鏡」にうつるものと自分が同じであると認識して初めて「これが私だ」という「自我」が生まれるとされる。つまり「鏡(他者)=私」であって、その頃の「自我」とは「他者」に他ならないのだ。鏡に限らず、家族などの「他者」と接しながら生活をすることで「他者にとっての自分」というイメージが出来上がる。つまり、誤解を恐れず言えば(理解が足りてないので調べてから編集し直します 汗)「他者」があって始めて「自分」が生まれるという理論である。

 つまり、「他者とはわたしたちの肉体そのものなのだ」という一文は鏡像段階の「鏡にうつる他者(わたしたちの肉体)=私たちの肉体」という認識と重なる。

「肉体」は「内部」と「外部」を分かつ。

次回に続く

※T.Todorov 『他者の記号学 アメリカ大陸の征服』
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