サムライ 第8話

【前回の話】
第7話https://note.com/teepei/n/ndc5110e2de1c

 森井と山辺が片づけをしない姿勢を保ち、職場は均衡状態に入った。森井と山辺以外の従業員はこれまでにない信頼関係の実感に満たされ、憚ることなく言えば良い雰囲気だったのだ。少し前まで糞でしかないと言い切っていたあの職場が、だ。だが渦中にいると、それが奇跡だとは思いながらも、どこか当然の日常として享受してしまう部分もあったのだろう。その日常の中で、俺は何の前触れもなく人を好きになった。だから森井と山辺の問題なんて眼中になく、いつも近くにいてくれる徳本さんと同僚と、そして好きになった女性のことで毎日が満たされていたのだ。

 その女性は職場の経理を担当していて、ひと回りも年齢の違うシングルマザーだった。職場に入った当初は特に意識もしなかったはずだ。話したきっかけはいつだったか考えてみると、あれは彼女がシュレッダーにかけたゴミ袋を三つも抱えてよろよろとゴミ捨て場まで歩いていた時だった。そもそもゴミ処理が基幹の職場で、ゴミを捨てるのに事務所からゴミ置き場まで優に三百メートルはあるという皮肉な環境だった。その距離を彼女は何の文句も言わず、誰の助けも借りようともせず、ただ一人で進んでいた。ろくに前も見えずに進む、どう見ても危なっかしいこの状況に出くわして、俺は当然のごとく手を貸した。
「ありがとうございます」
 本当に嬉しそうに、彼女はそう言った。一人で大変でないわけがなかったのだ。助けてもらいたかったらそういえば良いのに。最初に思ったのはその程度だった。そして翌日から、彼女の職場周りが目に止まるようになった。彼女は経理の職でありながら、当然のように総務全般も任されていた。しかし主幹の業務に携わっていないことが負い目だとでも言わんばかりに、周りは彼女の負担に目もくれない。それでも彼女は文句も言わず、振られた仕事、気付いた仕事、経理として当然こなさなければならない仕事、そのいずれも手を抜かず、精いっぱいこなそうとする。助けを借りたくても他に人がいない。そして彼女は人の助けを借りることにしばらく慣れていないようで、結果としてシュレッダーのゴミ捨ての時のような無理のある状況を生んでしまう。それでも負けず、彼女はこなしていたのだった。現場を回る俺にとって事務所と関わることはあまりない。それでも彼女の仕事が目に入った時は、声を掛けるようになった。その時もまだ異性としての意識はなく、徳本さんによって呼び起された他人への気遣いの精神によるものだった。だから、他の現場の人間も同じように事務の人間を気遣うようになり、事務の人間もその変化に気付き、職種が違うからという理由で当然のごとく存在していた壁が、大きく崩れだしたのだ。その一環として俺の行為は受け入れられ、俺もそれ以上のことは考えていなかったはずだ。
(続く)

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