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滝口悠生『高架線』(講談社文庫、2022)

 むちゃくちゃ面白い。文句なしで面白い作品。寝たのに目が覚めてしまった深夜1時過ぎから空が白むまでずっとページを捲る手が止まらなかった。気がついたら朝4時40分。あまり自分が読んだものを人におすすめすることはないんだけど、これはおすすめの一冊。プロットと小説手法の両面で満足できる。

 この物語は西武池袋線、東長崎駅周辺にある築50年近くのアパート、かたばみ荘を巡るものである。西武線沿線の物語というのもまた良い。このかたばみ荘はどういうわけか、そこで暮らす住人が転居する際、自身で次の住人を見つけてくることになっている(解説で鴻巣由紀子は『笑っていいとも!』の「友達の輪」スタイルであると述べているがまさにその通り)。家賃は30000円、不動産会社を通していないので手数料は不要だし、敷金礼金も不要という格安アパートである。

 まず物語の構造を説明するのであれば、語り手(中心となる視点)がアスタリスクで区切られたセクションが切り替わるたびに「〇〇です」との名乗りながら語りを始める。自己紹介してから語り出すのは、ここからここまで(*から*まで)の語りに責任をもつということの一種の宣言にもなっている。

 「新井田千一です。私の実家は池袋駅から西武池袋線で下って行って埼玉に入ったあたりで幼少期から二十歳までそこで過ごした。」(7)

滝口悠生『高架線』(講談社、2022)

 しかしそれぞれの語り手(確か7名(正確にはもう一人追加))はおしゃべり好きで語りが止まらず(新井田千一は自分が話にまとまりがないと自覚している)、そのまま放置してしまうと脱線して物語が崩壊してしまう。そのためおそらくこの物語をコントロールしている存在がいて、その存在が*で一旦リセットしてそれぞれの語り手に再度語りを始めさせているように思う。その制御が効かないのは峠茶太郎という語り手が唯一である。

以下は七見奈緒子の語りの最後の部分。

「三郎のことはそのぐらいしか話せることはないですけど、私、まだまだ全然話し足りないんです。もっともっと、しゃべりたい。」(151)

滝口悠生『高架線』(講談社、2022)

 語り手それぞれの名前も冗談のようでもある。新井田千一、七見歩、七見奈緒子、峠茶太郎(この語り手だけはある女性問題が原因で、偽名であると告白するが)、木下目美(まみ)、日暮純一、日暮皆実と7名の語り手はいってみればある事件に関するドキュメンタリーの中に登場する証言者のようでもある。何に対する証言かといえば、主には片川三郎という元ベーシストとその失踪事件についてである。

 この作品が面白いのは解説の鴻巣由紀子が指摘しているように、語り手をその語られている側であったはずの対象者が乗っ取ってしまって、まるで融合してしまったかのようにエピソードが語られている点である。鴻巣由紀子は片川三郎の失踪までの顛末を説明する七見奈緒子の語りにいつの間にか片川三郎の語りが憑依していることを指摘する。

 同様のことが峠茶太郎が語る『蒲田行進曲』のあらすじ説明(なぜ『蒲田行進曲』?と初めは思うのだが結末できちんと回収される)でも起きている。当初は峠茶太郎が木下目美にあらすじを説明しているが、彼があまりにも仔細にわたって説明するので全然進まず、途中で峠茶太郎が強制的に退場させられる。

「松坂慶子の胸がはだけてよ、と私は話を続けた。(中略)松坂慶子が喘ぎながら、銀ちゃーん、って叫んで、外は雨が降り続いている。まだこれでも映画は二十分ほどしか進んでいません。
 茶太郎さん、そろそろ閉店んですけど、と目美ちゃんが言った。」(205)

滝口悠生『高架線』(講談社、2022)

しかし木下目美が語りを始めると途中で峠茶太郎の語りにシフトしていく。

「だが、映画はこのあたりからがむしろ盛り上がりどころで、茶太郎あるいは茶太郎にその解説をしていたという松林さんの口調にも熱が入ってたかぶってくる。
 階段落ちの撮影の前夜、家でおでんを温めながらこたつにあたり、育児本を読んでヤスの帰りを待つ小夏。そこに泥酔したヤスが、大勢の客を連れて帰ってくる。誰かと問えば、酒場で募った生命保険の受取人たちだと言う。小夏は客らを追い返して泣き崩れる。」(228)

滝口悠生『高架線』(講談社、2022)

 このように語り手が物語をコントロールする権力を持ち、それを行使するわけではなく、複数の声が融合しながら物語が前進していくという手法が取られている。芥川賞受賞作の『死んでいない者』ではどの語り手が物語を語るのかが曖昧にされており、多層的な語りの構造を構成していたが、今回は複数の声が混ざり合いながら物語を展開しており、大変面白く読んだというわけだ。


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