ついに十の位が二になった。
なんてわかりにくい表現なんだと自分でも読み返して思うが、
そう、僕は最近二十歳になってしまった。
僕はどちらかというと早く大人になりたいと思うよりも、
ずっと子供のままでいたいと思うわがままな性格だから、
あえてここでは(なってしまう)という言葉を選んだ。
つい十年ほど前学校で行われた二分の一成人式とやらでは、
”おとな”なんてものは遠い遠い未来のモノだと信じていたけれど、
あの日、あの時先生が言った言葉は紛れもなく本当だったと今やっと気付いた。
まだ記憶も朧気な幼少期、
僕は破壊と強奪を繰り返し両親を困らせていたらしい。
今聞くと可愛らしい笑い話だけれど、
実際悪さをした僕の後始末をする両親の重荷は相当重かったと思う。
あの時はごめんね、大事に叱ってくれてありがとう。
幼稚園に入学してからは性別のギャップにはたびたび驚く日々だった。
僕はどうも戦いごっこも仮面ライダーもどうでもよくて、
もっと現実的な家族ごっこやお店屋さんごっこなどに傾倒していった。
それゆえ僕の周りには気づいたら女の子しかいなくなっていた。
僕はそれが心地よかったし、自分にもあっていたと思う。
小学校に入学すると仕草が女みたいだとからかわれ、
ますます男という生き物が嫌いになっていった。
そのたびに助けてくれたのは繊細な優しい女の子たちだった。
小学三年生まで男の友達と呼べる友達はほとんどいなかったと思う。
三年生になって事態は一変した。
すごく陽気な坊主が僕を男の世界へと引っ張り出してくれたのだ。
あいつは本当に馬鹿だったけれど、
何も考えずにいいことをするような本当にいい奴だった。
次第に男の子の友達も増えていき、そのまま思春期へと突入する。
僕の思春期は信じられないくらい早くて小学四年生のそういう授業が始まったぐらいの時に、
僕の高かった声は戻らぬものになってしまった。
まんまと教科書の例みたいになってしまってなんとなく恥ずかしい日々が続いたけれど、
身長がみんなよりも早く伸びて背の順の後ろのほうに君臨することが当時はできたため今となってはよかったと思ったりしている。
小五ぐらいで恋愛というものが現実味を帯びてきて、
小六で初めて彼女ができた。
小学校のカップルは今思えば本当に滑稽なのだがそれでもちゃんとデートにも行ったりしていた。
結局三か月も続かず、けれど周りの煽りに負けてもう一度付き合って、
結局中学に上がる前に自然消滅していた。
振り回してごめんね。
中学校は男と女がかなり線引きされているような感じで、
両方が居てくれてやっと本領が発揮できる僕にとって正直居心地のいいものではなかった。
無理してわけのわからない男のノリに入っては、
適当に相槌を打って、口角を無理やり上げるそんな一連の動作が癖になっていた。
二年のクラスは僕の望んでいたもののそれで、
みんながみんな仲良しみたいな空間で、
しょうもないことでも笑いあって、合唱コンクールは本気で頑張って、
クラス替えのころにはちょっぴり泣いたり、
本当に思い出深いクラスだったのを覚えている。
三年は悪いことをするのが美徳みたいな昭和のクラスだった。
常に学級は崩壊していたが、高校受験ということもあって真面目に勉強する人もいたから少しは救われたと思う。
悪いことをする集団の内の一人がなぜか僕にかまってくれて、
本当はあんなことしたくないと打ち明けてくれた。
あの時は心底驚いたし、少しうれしかった。
僕らの関係はひそかに続いていって、
家で一緒に勉強をしたり、
塾帰りに寄り道をしたりと少しづつ仲を深めていった。
この人とは大人になっても仲良くしていたい、そう思っていたけれど、
高校に入って君はどうしようもない連中の中に入り浸っていって、
僕は君を見下して、見放した。
元気にしてるかな?
助けてほしいならそんなことやめて戻っておいで。
流れるように高校生になって、
高校一年生でひまわりのような女の子に出会った。
彼女はいつも笑顔で僕のしょうもない話も笑顔で聴いてくれる。
色んな事をしたし、色んなところに行った。
これから先も長らくよろしくね。
高校二年生では部活が退屈になっていつの間にかお馴染の幽霊部員になってしまった。
その代わりにコンビニとユニバーサルスタジオジャパンを掛け持ちして、
あの三か月間は信じられないくらい忙しかった。
自分の計画性のない衝動的な行動力は本当に呆れるが、
あの頃の経験があって今の自分があると思う。
週三日学校終わり五時間ほどコンビニで働いて、
週末はみっちり八時間ほどテーマパークに出勤していた。
テーマパークで英語を初めて会話のツールとして使い、
色んな人と気持ちを通じ合える嬉しさに気付いた。
元々洋楽や洋画が好きだったこともあったが、
このころから海外に興味を惹かれていく。
そして高校二年の夏、ドイツから来た君に出会った。
君はすごく頭がよくて、僕よりもずっと年上で憧れだった。
そんな君と恋に落ちて、本当に短い間だったけれど、
林檎飴のような甘く濃い時間だった。
ドイツに帰国してからは僕らの気持ちの違いで、
すごく喧嘩してたよね。
僕らは飴の部分だけ味わって、
肝心のりんごはいつの間にか腐っていった。
しばらくして僕らは仲直りして今となっては気軽に話せる友達になった。
あの時は本当にごめんね。
こんな僕だけれど仲良くしてくれてありがとう。
蝉の声も聞こえなくなって、
葉がオレンジに染まるころ、
僕は両手を骨折した。
骨折した経緯は本当にバカバカらしくてここでは省略するが、
この怪我は一生忘れることはないだろう。
僕は一年周期で少し大きめの怪我をするのだが、
今回ばかりはさすがの僕でも堪えた。
両手が不自由な生活は思っている数百倍生きづらくて、
服を着ることもご飯を食べることも文字を書くことも何もかも自分一人ではできないのだ。
せっかくの修学旅行もお釈迦になったが、
周りにいてくれて人たちのおかげで笑って過ごせた。
あの時助けてくれた人たちへ、本当に感謝しています。
やっとギブスも取れて、忙しかったバイト生活も幕を閉じ、
例のウイルスが登場した。
それがもたらした影響はほとんどがクソみたいなものばかりだが、
長期間に及ぶ巣ごもり生活で自分を見つめなおすことができたのは唯一の利点だろう。
おかげで小説の楽しさに気付いたし、運動習慣も付いた。
健康にも気を遣うようになって、お菓子を食べることも減った。
高校最後の年になっていよいよ大学受験というものが現実味を帯びてきた。
特に行きたい大学もなかったけれど、
英語が学べるところをと関西外大を目指すことにしたが、
高校三年時の一学期の模試の結果は外大ですらE判定だった。
自分の実力に初めてここで気付いて進学塾へ夏休みから入ることにした。
実際、ほかの塾生は高校の先生が口酸っぱく言っていたように、
高校生の序盤からしっかり勉強していて、
何もしていなかった自分がすごく惨めに感じた。
そんな中、ただ一人僕の担当してくれていた先生は、
僕を励まし、支え、見守ってくれた。
その人の笑顔が見たい一心で勉強を続けた。
僕はまぎれもなくその人に恋していたのだろう。
そんな叶わない恋愛のおかげで僕の偏差値は飛躍し、
結局関西大学に入学することになった。
大学では軽音部に入部し、
ギターをろくに練習もせずにライブ本番を迎え、
場は凍り付き、
僕は静かにLINEグループを抜けた。
文化祭はオンラインになって、
僕らはダンスをすることになったが、これもまた黒歴史になる。
なんでみんなそんなに踊れるのか教えてほしい。
一人だけ桁違いに踊れず、ぎこちないロボットダンスがインターネットに公開された。
まあみんなで練習した過程や早朝に学校で撮影したのは楽しい思い出なので、
結果的にやってよかったと思う。
そして二年になってイギリスに留学している。
僕の人生はこんな感じでいろんな人に色濃く彩られていて、
傷つけられて、
助けてもらっていたものだと振り返ってみると気が付いた。
僕に関わってくれたすべての人に感謝の気持ちを伝えたい。
あなたたちのおかげで僕の人生は山あり谷ありの楽しいものになって、
こうして今も生きている。
ありがとう。
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