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その熟語、自動詞か他動詞か?(日本語の話)

こんにちは、川津です。
実務翻訳においては、熟語(漢熟語)をよく使います。たとえばuseという動詞なら、「使う」や「使って」だけでなく「使用する」と訳す場合も多いわけです。
ここで、気をつけるべきことがひとつ。その熟語が自動詞なのか他動詞なのか、見極める必要があります。

この記事では、いくつかの熟語を例に挙げつつ、普段私がこの点をどのように処理・判断しているかをご紹介します。

何はなくとも辞書を引く

使おうとしている熟語が自動詞か他動詞かを見分けたい場合、まずは素直に辞書を引くしかありません。
もちろん日本語の辞書です。ネット上にある辞書でも構いません。一旦その熟語の本来の意味を確認します。その後、原文に目を戻し、自分がその熟語を能動態と受動態のどちらで使おうとしているのかを確認します。

例文を見てみましょう。

The sanitizer will be sprayed out of the nozzle.

ここで「sprayed」に注目してください。訳はひとまず「噴射」でよいでしょう。
「噴射」という熟語の意味を確認すると、たとえば広辞苑第六版では「筒口から流体をある方向に向けて噴出させること」とあります。誰か/何かが流体を噴出させるのですから、この熟語は他動詞です。
他動詞ということは、「sanitizer」はその主体にはなれません。よって、以下のようになります。

○ノズルから消毒剤が噴射されます。
×ノズルから消毒剤が噴射します。

普段日本語を使っていれば、ほぼ感覚で判断できてしまうことですが、だからこそ時々勘違いしたり、間違いに気づかずに処理してしまうことがあります。
あれっと思ったら、ぜひ積極的に日本語の辞書にも当たってみてください。

実務翻訳で頻出する要注意熟語

辞書に当たってみてくださいとは書いたものの、熟語は大量に出現してきますから、毎回辞書を引くのは大変です。
そこでここでは、実務翻訳で特に頻出する熟語をいくつかご紹介します。

「向上」
星の数ほど見かける熟語です。ここでも広辞苑第六版を引くと、「上に向かって進むこと。前よりすぐれた状態に達すること。進歩。」とあります。つまりこれは自動詞です。技術が向上する、売上が向上する、という使い方になります。
しかし、よく見るのは「向上」が目的語を取るこんな文章。

The team worked hard to increase the sales.

売上向上のためにチームは尽力しました、と言いたい場合、実は正しい日本語としては以下のようになります。

○売上を向上させるため、チームは尽力しました。
×売上を向上するため、チームは尽力しました。

「移動」
広辞苑第六版を引くと、「移り動くこと。移し動かすこと。」とあります。つまり、この熟語だけで「何かを動かす」という他動詞的な意味を示せるわけです。
ひとまず例文を見てみましょう。たとえば、

I moved my chair closer to the window.

という文章があったら、

○自分の椅子を窓の近くに移動した。
×自分の椅子を窓の近くに移動させた。

となります。
(ただし、明鏡国語辞典を引いてみると「他人のものを動かす場合は『移動させる』が一般的」とありましたので補記しておきます。)

余談ですが、実は私は長いこと「移動」が自動詞だと思い込んでおりまして、動作主体が自ら移動するのでなければ何でもかんでも「移動させる」を使っていました……。この例文も、まだ感覚的には「移動させた」の方がしっくり来てしまう状態なのですが、皆さんはいかがでしょうか?

「待機」
広辞苑第六版によると「準備を整えて機会の来るのを待つこと」。他の辞書を眺めても似たりよったり、つまりこれは自動詞です。ついつい「待つ」と同じように他動詞的な使い方をしてしまいそうになりますが、本当は違うんですねぇ……(たしかに熟語の中に既に「機」という目的語が入ってます)。
つまり、

I will wait for the next bus.

という文があったら、「待つ」か「~まで待機する」に言い換えるのが本来の使い方だということになります。

○次のバスを待ちます。
○次のバスが来るまで待機します。
×次のバスを待機します。

変遷する用法

ややこしいのが、本来なら誤りだった用法が許容されつつある場合です。
既に述べた「~を待機する」などは、まだしもジャーゴンめいていて一般的とまでは言えなさそうですが、次のような熟語の用法になると、もはや「間違っている」とは言い切れないくらい日常的によく見かけます。

「完了」
広辞苑第六版を引くと、「完全に終わること、終えること」。つまり、本来なら他動詞的用法であっても「終える」という意味で「完了する」を使って問題ないのです。でも、よく見るんですよね、「させる」形の処理。

○その後、移行作業を完了します。
△その後、移行作業を完了させます。

私はこの熟語については、既訳で「させる」が使われていればもう遠慮なく「させる」で処理することにしています。

「増加」
これも似たようなもので、本来なら他動詞的用法であっても「増加する」で問題なかったはずの熟語です。広辞苑第六版では、「数量が増えること。また、増やすこと」とあります。
しかし、「~を増加させる」という言い回しは既に非常に一般的になっており、明鏡国語辞典には「~を増加する」よりも「~を増加させる」の方が一般的であると収録されているほどです。

○メモリの容量を増加する
○メモリの容量を増加させる

結局のところ何を信じればよいのか

理想を言えば辞書に記載の用法に準じるべきなのでしょうが、それだと不自然に見えるケースも稀にあるため、現実的には案件ごとの既訳に合わせて使い分けることになると思います。

それでも、気になる用法があったら私は一旦辞書に当たっています。そうしておけば、既訳のない文章を訳すときの引き出しが1つ増えますし、既訳に合わせた使い分けもスムーズになると思ってのことです。

言葉を扱う仕事をする身の上、「正しいか間違っているか」はとても気になりますが、どちらのパターンも心得て使い分けられる方が、翻訳者として一層望ましいのかもしれません。

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付録情報

最後に、辞書以外の情報源もご紹介いたします。これらは辞書的に正しい用法を知るというよりは、「どのような使い方が一般的なのか」を知るためのものです。正確性には適宜ご注意ください。

・青空文庫の全文検索
https://myokoym.net/aozorasearch
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「少し前の文学作品ではどういう使い方だったか」を調べることができます。著作権の切れた昔の作品群ですので、やや表現が古すぎたり、稀に誤用がヒットしたりしますが、ほとんどが文豪や有名作家の出版済み文章なので、日本語面での信頼性は高いです。

・梵天
https://bonten.ninjal.ac.jp/bccwj/string_search

ここでは、「現代日本語書き言葉均衡コーパス」から任意の文字列を検索できます(※このサイトは2021年12月24日で終了し、現在公開停止中の「少納言」に移行しますのでご注意ください)。

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