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【読書】『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす: 正義の反対は別の正義か』(朱喜哲)

多様性はとても大切だ。だが、各々が異なる価値観を持ちながら共生する社会を想像すると、すぐに壁にぶつかってしまう感覚がずっとあった。金子みすゞの如く「みんなちがって、みんないい。」は理想だが、本当に社会はそれで成り立つのだろうか?─という疑問だ。

そんな閉塞感を抱いていた折に、『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす: 正義の反対は別の正義か』(朱喜哲著)が目に留まり読了した。

著者はジョン・ロールズやリチャード・ローティを引きながら一つずつ丁寧に議論を進めている。まずは、本書からロールズの言葉を引用しておこう。

社会とは、おたがいにとって利益があるように、みなでとりくむ命がけの挑戦である。

わたしたちが社会という単位で、どのような構想を「正義」として選び、また合意を形成するのか。そのプロセスじたいが、まさしく政治なのです。

全体を通してとても感銘を受けたので、感じたことや解釈を含めてサマリを書き留めておきたい。

「正義」と「善」をちゃんと区別する

人は自分が信じてやまない価値観を「正義」であると錯覚してしまいがちだ。育ってきた環境や付き合ってきた人々、触れてきた種々のコンテンツなどを通じて経験的に自分の考えが形成されていく。これは、味付けの好みや映画の趣味などの些細なことから、信仰や政策への関心まで多岐にわたる。誰にでも「これだけは譲れない」という価値観の一つや二つはあるだろう。「これが、私が信じる正義です。」のような語法に違和感を感じることは少ないかもしれない。となると、一人ひとりが自分なりの正義を持っている——?

しかし、こうした一人ひとりで異なる価値観とは自分自身が私的に良いと思っている「善」(の構想)でしかなく、本来私たちが追求すべき「正義」とは異なるということが本書で通底する重要なメッセージだ。「正義」とは公共的な理念であり、私たちは社会の不公正を解消していく責務を担っている。

共生と公共

私たちは誰かと一緒に生きている。例え他者との会話や接点を何も持たずに暮らしていたとしても、電気や水道など何らかの公共のインフラの恩恵にあずかっている。(分業化が進んだ社会では、なかなか実感が湧きにくいけれど。)
そして、誰かと一緒に生きていくためには、各自が自己主張を押し通す訳にはいかない。社会を成り立たせるためには、必ずどこかで折り合いをつけなければならない。もちろん、一人ひとりが持つ価値観はとても大切で、その価値観が排除されることがあってはならない。多様性は「発展と進歩にとって不可欠」だが、多様性が尊重されるだけでは社会は成り立たない。共生から公共が生まれる。
つまり、共生せざるを得ない人間には、公共に対して責務がある。日常生活で自分が意識しないところで、絶えず社会的な協業が営まれ、暫定的な公共性が保たれている。何らかの負担を担うことなしに、こうした社会的な協業の結果生じる利益にだけ浴するのは不公正であると言える。言い換えれば、私たちは「公正」な行動をする責務を担っている。著者はジョン・ロールズを引きながら、「正義」とは、本来このような公共的な理念に対して使われるべき言葉であり、私的な道徳観のことではないと言う。

拡大する私的領域

しかし、いまの世の中の流れは、寧ろ個人の利益や幸福の追求、価値観の尊重など正反対の方向に向かっているようにも感じる。SDGs や ESG といった言葉も定着しているため一概には言えないが、少なくとも一人ひとりが幸せを追求すること、価値観を尊重すること自体は否定されるものではないと感じる。ただ、こうした「私的領域の尊重」には誰も異議を唱えられないこと自体に危うさを孕んでいるのだ。「あなたには理解できないだろうけれど、私にはこれが大切なんだよね。」という話法が跋扈すると、どこかで公共や公正のバランスに歪みが生じる。これがエスカレートすれば「私が大切にしている価値観が理解できないあなたなんて、信じられない」「あなたも私の価値観に従うべきだ」となっていく。私的領域は尊重されるべきだが、主張の理由や根拠を内面化した話法はリスクも孕んでいるのだ。

マイノリティにとっての公共性とインターセクショナリティ(交差性)

一方で、こうした「私的領域」を起点とした話法は社会的なマイノリティにとっては唯一の武器でもある。いまこの瞬間も社会的な不利益を被っている当事者は、現時点でこれに対処できる言葉を持ち合わせていない。それはマジョリティが現在の暫定的な公共性を形作っているからに他ならない。言い換えれば、マイノリティが発した言葉は「公」には記録されていないのだ。であるならば、私たちには誰もが公共の利益を得られるようにするための言葉をまずは整備していかないといけない。
となると、ここで言う「マジョリティ」や「マイノリティ」ってなんだろう?という問いも生じてくる。人種や国籍、性的指向や収入面での社会的階級のみならず、無数の軸が交差し、絡み合いながら一人ひとりの社会的な権利、特権、そして差別意識ですらもが形成されている。まずは、こうした「インターセクショナリティ(交差性)」に自覚的になり、「ふつう」や「中立」などという人は存在しないのだということを認識する必要がある。

「善」の一致を追い求めず、「悪」を避ける

こうして聞くと、いわゆるマジョリティとされている立場の人からすれば「何だか煩雑で、生きづらい世の中だなぁ」と感じるのかもしれない。しかし、そうした「自称ふつう」の立場からの物言いが、社会的な「力」を持った上位の立場からの視点であり、現在も誰かを残酷な状況に追い込んでいるのかもしれないのだ。
それに、様々に交差する軸が可視化され、自分や他者の位置関係を確認するための「座標」が増えることは、「公」の言葉づかいを増やし、自分や他者や社会がより自由に、より豊かになることでもあると著者は語る。これはとても勇気づけられる考え方ではないだろうか?

無数の軸が交差する世界で私たちは生きている。この世界では、価値観や信仰といった「善」が一致することは永遠にないと考えるのがプラクティカルと思える。寧ろ、「善」の一致は還元主義・全体主義的な危険性を孕んだ思想であることは歴史が物語る通りだ。であるならば、積極的に「善」の一致という理想を求めていくのはなく、避けるべき「悪」を考えていくべきだというシュクラーの提案を重く受け止め、「私的領域」に偏重するのではなく「公共領域」とのバランスを考えていかなければならない。私たちは、「不正義を解消していかなければならないという未来に向けた責任を皆で分有している」のだ。こうして考えると、冒頭で引用したロールズの言葉の重みがずっしりと響いてくる。

社会とは、おたがいにとって利益があるように、みなでとりくむ命がけの挑戦である。

わたしたちが社会という単位で、どのような構想を「正義」として選び、また合意を形成するのか。そのプロセスじたいが、まさしく政治なのです。


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