【開催レポート】4/15 お寺で詩を読む会
4/15(土)神戸市西区伊川谷町にある与楽寺にて、「お寺で詩を読む会」を開催しました。イベントの様子を振り返りつつ、レポートしていきます。
(開催からかなり時間が経ってのレポートとなってしまいましたが、読んでいただけると嬉しいです。)
1. 当日の流れ
⑴自己紹介
まずは、アイスブレイクをかねて自己紹介をしました。この時使ったのが、「質問カード」です。様々な質問が書かれた紙を、一人一枚引いて答えてもらいました。「質問カード」は詩について話すときのお題用にも使いました。
⑵詩を読む
今回は「波」というテーマで選んだ作品を鑑賞しました。扱った詩は次の4作品です。文体や雰囲気が全く違う四人の詩人を敢えて集めてみました。
各自でこれらの詩を読んだ後、詩についての対話に移りました。というと堅苦しいですが、次のルールのもとで自由に話し合う時間です。
最初は「詩は難しそう…。」「馴染みがない。」といっていた参加者の方もいましたが、いざ始めてみると感想や意見がどんどん出てきて、盛り上がりました。
2. イベントから感じたこと
今回のお寺で詩を読む会で感じたことが三つあったので、紹介します。
①「難しい」から広がる会話
参加者の中には「普段、詩を読む機会がない。」という方や「詩ってなんだか難しそう。」と詩を読むことへの不安を漏らしている方もいました。
しかし、「難しい」「分からない」ということを起点に会話が広がり、深まっていくことが多かったです。例えば、最果タヒの「波の音」の冒頭は「波音を因数分解すると」という表現からはじまります。ある参加者がこの表現の意味が理解できないと漏らしたことで、この詩についての会話が始まりました。
また、この詩には「きみたち」という言葉が何度も出てきます。ある参加者が「きみたち」とは何を指すのかと問いかけたことをきっかけに、個人個人の作品解釈が引き出されました。
「理解できない。」「不可解でモヤモヤする。」 そのような一見ネガティブに見えるひっかかりの感覚は会話や思考の種になるということを感じました。
②個人の体験からイメージが立ち上がってくるということ
話をしていると、詩のイメージには個人の体験が大きく影響していると感じました。例えば、茨木のり子の「波の音」には外国に思いを馳せながら、お酒を飲む様子が描かれています。詩にはどこでどうしてお酒を飲んでいるかは明示されていませんが、ある人は海外から帰って、荷解きしてる最中の場面を思い浮かべていました。また、中原中也の詩には月夜の晩にボタンを拾うという行為が描かれています。ここから最近自分が実際に拾ったもののことを想起する人、逆に自分が捨てられないものについて思いを馳せる人がいました。
同じ詩を読んでも、そこから一人一人違った物語が浮かび上がってくるということ。これは自分一人で本を読んだときには知り得ないことで、複数人で読む会ならではの楽しさだと思いました。
③「世代」というもの
②とも重なるテーマなのですが、今回の会では「世代」による体験の違いが、読むことに大きく影響していると感じました。それが特に現われたのが、寺山修司の「波の音」という詩です。この詩にはカセットテープを使う描写があります。それを読んで、カセットテープを日常的に使っていた世代の参加者がカセットテープの不便さについて熱弁してくれました。録音に手間がかかること(スマホでの録音とは比べものにならない!)、巻き戻しが困難なこと、使えば使うほど雑音が入ること、上手く取り外せなければテープが伸びて二度と聞けなくなってしまうこと。そしてそのようなカセットテープを扱う感覚を知っていることが、詩のイメージや感情の理解に繋がるのではないか、逆にカセットテープを知らなければ、作品から感じ取れるものは半減するのではないかという考えを話してくれました。
この文章を書いている私はカセットテープを使ったことがない世代です。(幼稚園の頃まではビデオがありましたが、カセットテープは使っていませんでした。)カセットテープに限らず、実際に体験した物事の重みや感覚というものは何にでもあり、それを知っている人だけが到達することができる世界はあるのだろうと思いました。同時に「分かり得ない」「共有できない」ということを、その場にいる全員で「理解する」「共有する」という対話の場の矛盾した面白さも感じました。
最後になりますが、今回ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。今後もお寺でのイベントは続けていきますので、よろしくお願いいたします。