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ネットに依存しすぎてある意味死にかけていた脳みそを再起動

インターネットがある生活が当たり前になってから、もう随分と経つ。
インターネットのことを、「ネット」というのが当たり前になってからも随分長い。

高校時代、情報処理の授業で「将来は、家にいながらインターネットで買い物ができるようになるかもしれません」と話す先生に、クラス中から「まさか―!笑」という声が上がっていたのが懐かしすぎる。

でも、この時から何年か後には、自分専用のデスクトップパソコンからネットでF1日本GPの観戦チケットを購入し、宿の予約もしていたんだからすごいよね…。
ちなみに、その年の日本GPは悪天候で予選の日程が順延された初のGPで、チャンピオンはM.シューマッハだった。

あ!
F1日本GPと言えば、今年はコロナ禍後初・3年振りの開催!おめでとう!

閑話休題。

そんなこんなで、今となっては「ネットがなかったときはどうやって生活していたんだっけ?」、と思うくらい日常生活に浸透(というか侵食)してるんだから、本当にすごい。

けれど、その便利さゆえとも言うべき弊害が自分に起きていることに気付いて、ゾッとしたことがあった。

最近、以前にも増して手帳やノートに興味津々で、気に入ったものを購入してはニヤニヤしているのだけど、いまいち使いこなせていないことに少々ストレスを感じていて…。
なので、良いアイディアはないかとスマホやPCで「手帳術」やら「ノート術」「メモ術」などを検索したり、書店でそれ関連の本を探してみたりするものの、どうにもしっくりくるものが見つからない。

「自分にぴったりしっくりくる使い方は、一体どこに書いてあるんやろう」

そう思ってため息をついた瞬間、ふと我に返った。

「いや、自分にぴったりしっくりくる使い方は、自分にしか分からんやん。
 だったら、自分で考えて、自分で試して、見つければええやん」

ネット検索で出てくる情報は他人の体験や思考、知識をまとめたものであり、いわば他人の脳みそを覗かせてもらっているようなもの。
そのおかげでいろんなことを学べるわけだけど、それに依存しすぎるということは、自分の脳みそを使わずに「体験したつもり」「考えたつもり」になっているに過ぎないということ。
そんな状態で、自分の時間を、自分の人生を生きていると言える?

ああああああネット依存こわいこわいこわい!

こんなんじゃ駄目だと自分に活を入れ、イチから自分仕様の手帳・ノート術を生み出していくことを誓った。
「誓った」なんて大げさかもしれないけど、それくらい肝に銘じて自分の振る舞いを変えていかなきゃならん事態なのだから、これでいいのだ。

というわけで、ひとつ自分でうんうんと考えてみたのが、昨日書いた「noteのお題手帳」という使い方。どんな様式の手帳にどんな風に書いていくのかはまだこれから考えるんだけど。

どんなに下手くそでも不格好でも、自分で考えて開発、創造していくことは死ぬまで諦めちゃいけないなと、改めて思った気づきのチャンスのお話でした。






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