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創作エッセイ:優しさの反対

愛の反対は無関心

「愛の反対は無関心」
ハンガリー出身のユダヤ人作家、エリ・ヴィーゼル氏(1928-2016)の言葉。
エリは、愛の反対が無関心であるのみならず、美の反対も醜さではなく、信仰の反対も異端ではなく、生の反対も死ではなく、すべて無関心であると言った。
彼は、ユダヤ人というだけで少年時代に受けた不条理と、それに手を差し伸べられない民衆をみたことで、愛の反対は憎悪ではなく関心をもたないことだと考えた。

では、優しさの反対は何なのだろうか。

私の考えは間違っているのだろうか。

叱る人・叱らない人

私には部下がいる。とても優秀だが、少々一般常識に疎い。
そして最近の子あるあるなのか、叱られることにひどく抵抗がある。

「田中係長、お疲れっすー」
「お疲れ様です。」
「今日の作業報告なんすけどー…」

この言葉遣いについても、ついこの間注意したが直らない。
それどころか周りで見ていた若手から陰で「今どき上下関係だ何だって、時代錯誤だよね」と陰口をたたかれる始末。意味が分からない。

「田中係長ー」
「今大事な作業の途中なので、少し待っててください。」
「いやでも、すぐ終わるんで。」
「少し待っててください。」
「え…はあ。」
流石にこれは許容できない。
「君。物事がすべて自分都合で進むと思ってたら駄目だよ。特に、相手からの助けが必要な場合は相手に合わせるぐらいの気持ちでいないと。」
「あー、そっすね。」
これは全く響いていないな。暖簾に腕押し。
「いつも言ってるけど、困るのは君なんだから。もう少し、自分の言動から起きる後々の影響を考えなさい。」
「はい。」

これ以上言ってもな…
「で、用件は?」
「えっと、これなんすけど…」

後日、このやり取りを見ていた別の社員の告発により、課長との面談に呼ばれることとなった。理由はパワハラらしい。課長の待つ会議室へ向かう時、いつも陰口をたたいている女性社員が話しているのが聞こえた。

冗談じゃない。

「田中くんは少し不器用なところがあるからね。」
「すみません。」
「でも、誰よりも優しい。」
「…」
こんなこと言うのは、長年お世話になっている上司の森課長ぐらいだ。
「田中くんが尾野くんを注意するのは、『もったいない』という気持ちからだよね。」
「はい。」
「とすると、尾野くんに響かない理由は何だと思う?」
「彼はまだ社会経験が少ないため、コミュニケーションの重要性を理解していないからだと思います。」
「そっか…」

軽い沈黙の後、彼は再度私に質問した。

「田中くんの回答が正しいとすると、周りの先輩たちは『尾野くんの成長を邪魔する、性悪な人たち』って見えるね。」
「性悪とまでは言いませんが…少なくとも、無責任な肯定ばかりをしているように見えます。」
「そうだよね。じゃあ逆に、周りの先輩たちは尾野くんを想って肯定してるとすると、尾野くんに響かない理由は何だろう。」
そんな馬鹿な前提があるか。仮にそうだとしたら、この会社は "新人は無能に育てることが正しい" というイカれた社風だということにならないか。
「あり得ないって顔だね。」
「すみません。」

質問に回答するどころか質問自体が腑に落ちていない私を見て、森課長は少し口角を上げながら前に乗り出した。
「田中くんはさ、『性善説』のもと生きてるんだよね。『尾野くんはまだ社会を分かっていないだけで、いつか後悔してしまうかもしれない。だから上司の自分が嫌われてでも指導するべき。』と。」
まさにその通り。そうでなきゃ、まともな後輩が育たない。
「でも周りの先輩たちは『性悪説』のもとに生きてるんだよ。『尾野くん自身は直す気無いし、下手したら面倒に感じた本人からパワハラで訴えられかねない。このままを受け入れた方がお互いのために良い。』ってね。」
「でもそれじゃあ、まともな後輩が…」
「まともな後輩は育てるものじゃなくて、見つけ出すものだと考えてるんだよ。つまり、上司の影響ではなくて本人がどうなりたいかってこと。だからこそ、やる気があって沢山質問してくれる後輩には手厚く対応していると思うよ。」
なるほど。確かに、この会社で放置されている新人は見たことがない。

『性善説』と『性悪説』…高校受験のためにひたすら苦手な社会を勉強していた私は、すぐに意味を理解した。

性善説:『人はみな生まれながらにして善人である』という説。
性悪説:『人はみな生まれながらにして悪人である』という説。

「…つまり、尾野くんは」
「そういうことじゃないよ。これは、『尾野くん自身がどちらか』ではなくて『周囲の人間がどういう考え方なのか』って話。尾野くん自身がどっちなのかは他人が決めつけることではないよ。」
「…はい。」
いつも温厚な課長から注意を受けたと感じた私は、肩を落とし情けない声で相槌をした。
「僕はね、そんなところも田中くんの良いところだと思ってるし、別に直してほしいわけじゃないんだ。ただ、周りの先輩たちにも同じことを思ってる。」
「?」
「つまりは…周囲は今まで通り、それぞれの思う寄り添い方で尾野くんをサポートしてくれたら良いなって思ってるよ。『性善説』で生きる君は、尾野くんが優秀な社員に育つように。『性悪説』で生きる周りの先輩たちは、尾野くんが伸び伸びと仕事できるように。」
そう言って、森課長は優しく微笑んだ。

それと引き替えに、私には新たな不安が芽生えた。
「でも、その結果が今日です。」
今回は森課長と話すだけにとどまっているが、昨今のハラスメント防止運動からして、いつ私の人事データに【パワハラ経験あり】と追記されるか分からない。そうなると、昇進は難しくなってしまう。
「私はこれ以上尾野くんに何も言えません。」
「そんなことない!簡単だよ。一言添えるんだ。『個人的な意見だけど』『私の感覚では』って。」
正直、そんな一言で今日私を告発した社員が納得するとは思えない。

私の顔を見て察した森課長がポツリと話し始めた。
「そもそもね、今日田中くんを呼んだのはパワハラ云々の話ではなくて『田中さんが不器用過ぎて苦労してる』『一部社員に勘違いされてる』って相談を受けたからなんだ。」
「え?」
「否定的な意見を持つ人間ほど声が大きいから目立ちがちだけど、全体数で考えたらほんの一握りだ。自分が思っている以上に、周りは本質を見てくれているもんだよ。それに、普段から陰口の声が大きい人ってどうせ別の場所で別の人の陰口も言ってる。だから相手にする必要無いんだよ。…まあこれは、僕の偏見なんだけどね。」
早速 "一言添え" の使い方を披露してくれた課長は、得意げな顔をして自身の偏見を続けて教えてくれた。
「僕の個人的な意見になっちゃうけど…田中くんの指導が尾野くんに響かない理由は、本人がそれを望んでいないからだと思うんだよね。『周囲の環境に順応したいんじゃなくて、自分のスタンスに合った環境を探してる』って感じ。タメ口OK!仕事も大体でOK!出世しなくてもOK!みたいところかな。だから、何を言われても自分には関係ないと思ってしまう。」
確かに。これまでの尾野くんの言動を思い返すとピンとくる出来事がいくつかある。

森課長も『性悪説』派なのか…

「ね?どれだけ有益な情報を与えても結局人生を決めるのは本人なんだからさ、外野は個人的な意見を助言として投げるぐらいで良いんだよ。少しドライに感じるかもしれないけど、それぐらいが自分のためでもあるし。」
「自分のため?」
「そう。他人にプラスの期待をしてしまうと、その人が思い通りにならない時にショックを受けるでしょ?勝手に。『この人は本来こんな人じゃない!もっと良い人のはずだ!やってないだけで、できるはずだ!』ってね。中には怒り散らして言うことを聞かせようとする人もいる。これを、"ハラスメント" と言うんだよ。後輩想いでも何でもない、ただのエゴの押し付け。だから、良い上司は助言するけど選択は自由にさせるんだよ。今日もそう。仮に田中くんが今後も言葉足らずで生きていこうが、僕は怒らないしショックも受けない。それが君の本質ということだからね。」

「叱る・叱らないのどっちが優しいなんて、そんな浅いところで悩んでいるようじゃダメだよ。だって、今回のケースもそうだけど『尾野くんを優秀な人材に育て上げようとしてくれてる田中くん』も『今の尾野くんを許して肯定してくれてる人』も、みんな優しいんだから。そもそも他人は他人だと理解した上で、自分は他人とどんな風に向き合いたいか、今自分が置かれている環境においてどんな向き合い方が最適か、で考えるんだ。それが分れば、きっと腑に落ちる日が来るから。…まあ、僕はそうだったっていう経験談でしかないんだけどね。」

「あっ!出てきた。怒られたはずなのに、相変わらずすかしてるよね。」
「わかるー。ほんと、そういうとこだよね。」

今まであんなにも気が散る言葉だったのに。

「田中係長。これ確認してもらっていいっすか?」
「尾野くん。君…」

良い上司は助言するけど選択は自由にさせるんだよ。
それが君の本質ということだからね。

「…私個人の意見だけど、人に何か依頼する時は依頼相手に他の仕事があることを加味して期日を設定した方が良いですよ。ちなみに私はこれから別の会議が入っているので、すぐには確認できません。」
「あ、はい。じゃあ、確認終わったら言ってください。」
「私から言うんじゃなくて、君から余裕ある期日を設定するんだよ。……その方が相手に親切だと思うんだ。」
「はあ。じゃあ、来週の金曜日まででお願いします。」
これで合っているのか…?

初めての "一言添え" が腑に落ちないままPCに視線を戻した。不意に視線を感じ顔を上げると、満足そうに笑う課長がこちらを見ていた。

ん?課長は『性善説』派なのか…?

𠮟る人・叱らない人:後日譚

「田中課長。こちらの件ですが…どういう形式の資料が良さそうですかね。」
「そうですね…本来であれば文章で淡々と説明するだけで十分ですが、先方は図で見た方が理解が早い気がします。あくまで私の経験上ですが。」
「なるほど…では、次回の会議では簡易資料として図解をメインとしたパワポで挑んで、後日正式な文書を出すことにします。ありがとうございます。」

あれから5年。森課長から教えていただいた "一言添え" を実践した私は、みるみるうちに仕事が増えていき、気付けば課長職に昇進していた。
あの頃はまさかと思っていたが…長年の経験とは恐ろしいな。

その後の尾野くんはというと…
私の下から異動した先で何かをやらかし、入社5年目にして窓際族となったらしい。また、風の噂で「この会社は合ってないから転職する」と公言しているという話も聞いた。相も変わらず恐ろしいメンタルだ。だが、彼らしく強気でブレない意見に、どこか安心している自分もいた。「彼はもとよりそうなのだ」と。

"一言添え" を教えてもらったあの日から、どうしても聞いてみたいことがある。

「森部長。お久しぶりです。」
「田中くん、久しぶりだね。人事部に用事?それとも僕に用事?」
「人事部に用事があって来たのですが、森部長にどうしても聞きたいことがあるのを思い出しまして…今よろしいでしょうか。」
「お!なんだろう。」
「森部長は、『性善説』と『性悪説』のどちらが正しいと思いますか?」
「そうだね…どちらも正しくない、かな。」
「と言いますと?」
「僕は『性無善無悪説』派なんだよ。『人の本質は中立的なものであり善も悪も無く、善悪はどちらも後天的である』ってやつ。あれだけ2つの説を語っといてなんだけど、僕自身は目の前で起きた事実しか見ないんだ。」

そうか…『反対』と、そもそも2つしか無い前提で考えていたから腑に落ちなかったのか。

答えが出た。

【優しさの反対】
5年前:無責任な肯定
今:定義できない


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