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4.2.2. 近代数寄者との共通点

明治の社会人茶人「近代数寄者」

「お茶」と本職の関係について,「商人だったり武士だったり,みんな他の仕事をしつつお茶をやっていて,そこに本質があると思う」と述べたのは翔太さんである。

これまでにも茶道界の代名詞として登場した千利休が,商人でありながら茶人であった一人として,ここでも引き合いに出されていた。


しかし,稼業と「お茶」を両立させていた人々は千利休だけではない。
最も代表的な例として,明治時代に活躍した近代数寄者 [注27] と呼ばれる茶人が思起される。

近代数寄者は,本業である自身の事業でも功績を残し,茶道史にも名を残した茶人たちのことだ。

大輔さんも「それこそ(近代)数寄者の茶人たちってみんな実業家じゃないですか」と述べていたように,多くのインフォーマントが言及したのが,この近代数寄者である。


共通点(1)茶道とは別に本業がある

智子さんも,以下のように近代数寄者に強い関心を示していた。

明治時代に財閥のおじさんとかがやってた茶会とか興味ある。
江戸時代に(茶道が)習い事になってグダグダになった後,原三渓とかがかっこよくやってたあの時代が,もう一回来たピーク。

この発言の中では,お稽古としての茶道を教える茶道専業の教授者との対比で近代数寄者が語られている。

会社員である智子さんは,茶道以外に収入源を持ちながら茶道に取り組む近代数寄者に共感を覚えるようだ。


共通点(2)「見立て」の多用

そして近代数寄者とインフォーマントの共通点は,茶道とは別に本業を持っていたことだけではない。

茶道具ではないものを敢えて茶道具として使用する,見立てという手法を多用していたところも,「茶道団体」と共通しているといえる [注28]。
中でも,益田鈍翁 [注29] が海外から来た客のために,世界地図を掛け軸にしたエピソードは有名だ。


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[注27] 明治維新を機にそれまで茶道界を支えていた大名や豪商が消え,その後の茶道を担った財政界人をまとめて「近代数寄者」と呼ぶ。具体的には,維新の志士として活躍した井上世外(馨)や,東京大学の安田講堂を寄付した「寄付王」安田松翁(善次郎),藤田財閥の創始者で藤田美術館にコレクションを残す藤田香雪(伝三郎)が挙げられ,電鉄王と呼ばれた根津青山(嘉一朗),横浜三渓園を造った原三渓(富太郎)へと影響を与えた。こうした彼ら財政会人の茶会を茶会記にまとめた高橋箒庵(義雄)もその一人だ。〔谷端 2012: 290-291〕
[注28] 益田鈍翁は禅宗を骨子としてきたそれまでの茶の湯の中へ,密教美術を始めとする仏教美術を積極的に導入したことでも有名な茶人である。茶の湯の世界にお茶以外の美を包括することにより,茶の湯の概念が一挙に広がった分,お茶の精神空間の容量が大きくなった。これにより,江戸期の幕藩体制の中で形骸化してしまっていた茶道の制約が完全に取り払われることとなり,「茶の湯に叶うものは,取りあえず,取り入れてみよう,あるいは工夫を凝らしてお茶にしてみようという空気が盛り上が」り,「それまで茶の湯と縁の無かった品々が,新たなパワーをもって茶の湯そのものを厚みのあるもの」〔鈴木 2000: 41〕へと変わった。
[注29] 近代数寄者(脚注27参照)の中でも代表的な人物。脚注11参照。

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