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3.2.2. 大寄せ茶会のマニュアル化と無個性化

大人数向けの茶会

ここまで漠然と「茶会」と表現されてきたものは,主に少人数形式のものを指している。
ある和室に多くとも数名程度の客が集まり,亭主がお茶を点て,客が順々にお茶をいただいていく形式だ。


便宜上,茶会を2つに大別すると,もう一つ「大寄せの茶会 [注11] 」と呼ばれる形式が存在する。

主に日本庭園や公園,美術展やイベント会場等で,置かれた長椅子等に座る茶会が多い。
赤い和傘の近くや,テントの中で行われているものがイメージされるだろう。


大寄せの茶会では,一席あたりの客の人数が数十人〜数百人単位になる。
そのため,亭主が客の目の前で全員分の茶を点てることはない。
点て出しと呼ばれる形式で,水屋 [注12] で複数人によって点てられた抹茶が,流れ作業のように供される。

もっとも,和室で行われている茶会でも,参加者の人数の多いものはこの点て出し形式でお茶が供される。
すなわち,「大寄せの茶会」とそれ以外の茶会を区別するのは,開催場所──茶室か茶室ではないか──ではなく,その参加人数であると言える。

大寄せの茶会の特徴

大寄せの茶会では事前予約が不要なことも多く,参加費も安価であり,茶道の心得のない人でも参加しやすいという特徴がある。

最も位の高い席には茶道経験者が座り,半東 [注13] と最低限の問答をする点は通常の茶会と同様だ。
それ以外の客は,基本的にお菓子とお茶をいただくだけでよい。
一般的な少人数の茶会と比べると,作法をうるさく言われる場面は比較的少ない。


上述の説明では語弊があるが,大寄せの茶会に参加するのは茶道の心得のない人や初心者ばかりではない。

本稿のインフォーマントは茶道関連の人々との繋がりも濃いため,知り合いの主催する大寄せの茶会に参加する機会も多い。
そのため,茶事や少人数の茶会だけでなく,大寄せの茶会について語ってくれたインフォーマントも何人かいた。

「最近どの茶会行っても同じなんですよね」

少人数形式の茶会と比べ,こういった大寄せの茶会で失われているものは何か。

「茶道団体」を主宰する翔太さん(20代後半,男性)は,大寄せの茶会が日常的な娯楽に劣っていることを指摘する。


茶会の主催者が意識すべきは,他の(流派の)茶会ではなく,コーヒーチェーン店,カラオケ,ファーストフード店や某テーマパークといった場所であると彼は語った。
上記のような値段なりの価値を提供する娯楽施設ではなく,あえて茶会に来てもらうためには,「お金もらってるんだから」金額に見合ったものを提供しなければいけないと主張する。


しかし実際の大寄せ茶会では,亭主も客も毎回同じやり取りを繰り返していることに翔太さんは触れていた。
茶会で為される問答なども「また次同じ会話だ」と先が読めてしまうと不満を述べる。

最近どの茶会行っても同じなんですよね。
大寄せ(の茶会に)行って,あれ,人(亭主)が変わったけど同じだなって,じゃあこの人である必要なくない?
(略)
僕がここに来てる意味ないなぁってすごく思う。


大多数に開かれた茶会にも「(亭主が)この人である必要」を求め,そこにお茶会に行く意味を見出すことを期待していることが窺える。

大輔さんも「毎週人(=亭主)が違っても茶会をやりたいかっていうと,僕はそう思わない」と発言しており,翔太さんの感想に近似している。

これらは客として大寄せの茶会に参加する際の意見である。

「知らん人に心は込められない」

同時に,本稿の主要なインフォーマントは自身も茶会を催しているため,大寄せの茶会を主催する側の意見も伺えた。

会社員を経て現在は茶道を本業にしている達也さん(30代前半,男性)は,茶会に来た客に「感動です」と言われるときが楽しいと語る。
それは「不特定じゃなくて特定の人」に言われたとき,と付け加えた。

矢島
「不特定(の客)っていうのは,大寄せの茶会のような」

達也さん
「ああ,大寄せの茶会は社会貢献活動ですよ。
昨日もしましたけど。大義として。
知らん人に心は込められない。」


換言すると,達也さんは,自身が見知っている特定の客にお茶を振る舞うことに意味を見出している

不特定の人に感動してもらえることの重要度はそれよりも低く,茶道を広く楽しんでもらうという大義のために大寄せの茶会を主催していると述べている。


客側として翔太さんが求めている「この人である必要」と,亭主側としての達也さんの「特定の人」に向ける想い。
これらの主張は重なっていると言えないだろうか。

「お茶会だけやってるのは飽きたよね」

加えて大輔さんは,道具や茶室が多少風変わりなものでも,茶会の中身は結局「全体としては何も変わらない」と考えていた。
それが茶会というスタイルの限界だと語る。

「そろそろお茶会だけやってるのは飽きたよね」という発言からは,茶会の参加者としてつまらないだけではなく,亭主側もつまらないと感じていることが窺えた。


続けて,亭主が変わっても茶会の中身が変わらないようでは,客も一回参加して充分だと感じてしまい,二回目に繋がらないと話す。

特定の「誰か」である必然性

今度は「何をしてくれるだろう」と客が亭主に期待することで,「お客さんがもう一度参加したいと自分から」望む,という論理を大輔さんは展開していた。

今度のあの人(亭主)は何をしてくれるだろうって(客が)思ってくれないと。
もう一回あの人のお茶,ってならないと(いけない)。


ここで翔太さんや達也さんの発言に引き続き,「もう一回あの人のお茶」という,特定の誰かである必然性を求める言葉が再度登場する。


彼らが「最近どの茶会に行っても同じ」「お茶会っていうスタイルに限界がある」と述べ,亭主が茶会の意義や面白さを左右することを強調するとき,問題は「どの流派の」茶会かではなく「誰の」茶会か,なのである。



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[注11] 三井財閥の最高責任者であった益田鈍翁(孝)が弘法大師の真筆を手に入れ,披露を兼ねて行なった「大師会」という私的な茶会が,園遊式の大寄せの茶会の始まりであった。鈴木によれば「大師会の特色である展観と喫茶の組み合わせは,現在,美術館の展観と茶会のセットとして定着している。現代の茶の湯は大師会のやり方を踏襲して発展してきた」〔2000: 40〕。
[注12] 「水屋」という語は,もともとの水を扱う場所という意味から転じて台所を指すようになった。茶道では通常,茶道具を置いておく場所のことを指すが,茶事や茶会の準備をする裏方という意味で用いられることも多い。ここでは後者の意味である。
[注13] 半東は茶会において,亭主のアシスタントのような役割をする。亭主は茶を点てることに集中するため,客と言葉を交わすのは,基本的にこの半東である。

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