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3.3. 小括:「どの流派の」茶会なのかではなく「誰の」茶会なのか

本章の議論の中心は,現行の茶道に疑問を持つ人々たちによる茶道教室や流派の問題点の指摘から,個人(亭主本人)が茶道(自分のしていること)を面白いと感じるかどうかへと移っている。

そこで取り沙汰されているのは,その茶会が「どの流派」によって執り行われているかではなく,「誰が」催しているかである。


当然その「誰か」は多くの場合,特定の流派の傘下にあり,流派名が個人名より前に出ることはもちろん,その逆もあるだろう。
この現象には次章以降で触れていく。


茶会を選ぶ基準:松江市を事例に

ここで,「どの流派の」茶会かを意識しない一例として,松江市の流派が一堂に会する松江城大茶会を挙げたい。

訪れた人々が,流派名ではなく,その下に書かれた和菓子屋の名前を見てどの茶会に参加するか決めたり,和菓子だけ包んでもらいお茶を飲まずに帰ったりする姿が象徴的だったのだ。

どの流派でも同じことが繰り広げられているからこそ,茶会の中身(お茶を飲む場面)を省略した例だといえる。


このエピソードの場合,各流派の茶会の差異は,流派や流派の中の人ではなく,和菓子屋や和菓子の違いであったと言っても過言ではない。

各和菓子屋の認知度がそれだけ高いという地域性は伺える。
しかし松江市のように地元の流派が色濃く残る地域でも,一部の人々がそのように茶会を選択していたという事実は重い。

非茶道修練者のような,流派に思い入れのない人々が,お菓子だけ受け取って帰るのとは訳が違うのだ。


問題点の解決策としての「茶道団体」

松江市の一例には,流派の中で茶道をしてきた人々の心境も散らついて見える。

今日の茶会形式に飽きているのは,何も「茶道団体」の人々だけではないのだろう。
 

本章で扱った茶道教室茶会の問題点がどのように昇華されていくかは,次章以降で重点的に触れていく。

そして本章の結論でもある,流派以上に重要な意味を持つ「誰の」茶会か,という視点を扱う重要性を踏まえ,「茶道団体」はどのような「お茶」をするのかを,次章で明らかにする。

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