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【1話完結小説】親指隠し

「救急車が来たら親指を隠さないと親の死に目に遭えない」

そんな都市伝説めいた話を学校で聞いて以来、僕は救急車のサイレンが聞こえるたびに親指をしっかりと隠した。僕だけではない。一緒に登下校するクラスメイト達も同じように親指を隠すことに夢中だった。

「あっぶねー!もう少しで隠すの遅れるとこだったわ!」「セーフ!」「もう俺ずっと手ぇポケットに入れとくわ」「うわ、それ最強!」
救急車が近くを通ると、僕らはやたらざわつき盛り上がっていた。

だけどクラスメイトのたっちゃんはそんな僕らをほほえみながら眺めているだけで、親指を隠そうとはしない。むしろ親指をしっかりと救急車の方に向けて見せつけている…ようにすら思えた。

「たっちゃんも隠した方がいいぜ」
そんな忠告をしてみたこともあったが、
「うーん、僕そういうの信じてないからさ」
とあっさり断られた。
いつも優しいたっちゃんは大抵のことには「そうだね」と同意してくれていたものだから、僕は断られたことが少し意外に感じた。

数ヶ月後、親指隠しのブームも過ぎ去って僕らが消しゴム落としに命をかけていた頃、たっちゃんの両親が虐待の容疑で捕まった。たっちゃんは服で隠れるところを殴られたり蹴られたりしていたらしい。その後、どこかの施設か親戚に引き取られて行ったそうで、結局一度も会えないまま転校して僕の小さな世界からいなくなってしまった。

それは幼い僕にとってかなり衝撃的な出来事だった。
昨日まで仲良く遊んでいた友達がいきなり消えたこと。子供を殴ったり蹴ったりする親がこの世界に本当に存在するということ。そして何よりそれらを泣きも喚きもせず、助けを求めることもせず普通な顔をして日々を過ごしている、そんなたっちゃんのような子供がいるということ。
僕がたっちゃんなら果たして耐えられるのだろうか。友達に助けを求める?隣の優しいおばあさんに泣きつく?警察に駆け込む?それとも何もできないまま、たっちゃんのように我慢するのだろうか。僕は弱虫だから、もしかしたら泣きすぎて死んでしまうかもしれない。

*****

それから季節がいくつも過ぎ去り、僕は大人になった。地元の小学校で教師として働いている。

今振り返ると、あの時たっちゃんが頑なに親指を隠さなかったのは、両親に対するせめてもの抵抗だったのかもしれない。逃げ場のない日々の中で子供ができる唯一の抵抗…。あまりに無力すぎる悲しい抵抗…。
たっちゃん、いつも一緒に登下校してたのに、気付いてあげられなくてごめんな。

僕は、クラスの生徒の中で虐待を受けているのではないか…と疑わしい子がいたら、救急車の都市伝説をそれとなく聞かせることにしている。

他の子供たちが必死で親指を隠す中、あの日のたっちゃんのように親指を隠さなければその子は被虐児に違いない。

………なんて、ね。そんな分かりやすい判別方法なんてある訳なかった。
必死で親指を隠していた女の子は義理の親から虐待を受けていた。全然隠そうともせず余裕で虫を追いかけていた男の子は、休日のスーパーで両親と手を繋いで幸せそうに笑っていた。

子供たちはみんなそれぞれ性格も行動も違うんだ。セオリーなんかに頼っていたら見逃してしまう。一人一人と真剣に向き合わねばならない。それがどんなに難しいことか、日々痛感している。まだまだ教師になって数年、迷いや不安は尽きないし、何が正解なのか分からなくなる。ブレブレの自分をぶん殴りたくなる時もある。

それでも、僕は救急車の都市伝説だけは子供たちに話し続けている。それは、きっとずっと君のことを忘れたくないからだ。結局、ただの自己満足だよな。

たっちゃん、元気か?今、君がこの世界のどこかで幸せでいてくれること、全ての子供が安心して笑顔で暮らせること、僕は心の底からそういう世界を願っている。それだけがずっと揺るがない事実として僕の中に存在している。

end

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