【1話完結小説】僕とジュリエット
通学路にあるボロアパート。その2階角部屋の窓から、下校中の小学生に向かって毎日怒鳴ってくるおばさんがいた。6年生の僕が入学した時からずっと繰り返されている光景だ。
「ぎゃいぎゃい煩いんだよ!このクソガキどもが!親連れてこい!」
怒鳴られるたび、女子達は足早に逃げていくし、僕ら男子は敵と対峙したヒーローみたいな気分で言い返したりする。おばさんは部屋から怒鳴ってくるだけで実害がない為、半ばゲーム感覚で楽しんでいたように思う。
「ジュリエが出た!ばーかばーか!」
おばさんは子供達からジュリエと呼ばれていた。ボサボサロングヘアでフリフリのワンピースみたいな服。窓から身を乗りだす姿が「ロミオとジュリエット」のジュリエットっぽい…と昔誰かが言い出したそうだ。
大人達はジュリエの事を「頭がおかしい」「クスリをやってる」などと噂し、僕らに「あまり関わらないように」と言い聞かせた。
実際、ひとしきり怒鳴り散らした後のジュリエは急にクスリが切れたように窓辺で呆ける事があった。そうなると子供達が道を通っても囃し立てても全く反応しない。秋の終わり、無表情に空を見つめるその横顔がやたら綺麗に見えて、僕は急にドキリとした。実はジュリエはまだ若くて、身なりを整えたら美人なんじゃないか…とその時初めて思った。それから僕はどういう訳かジュリエに向かって「ばーか」と言えなくなってしまった。
冬休みが近いある日の下校時、背の高い男が窓辺で呆けるジュリエに向かって大声で喋りかけていた。
「こんな所におったんか!散々探し回ってたんやぞ!」
それから男はボロアパートの階段を足早にかけ上がった。上目遣いのジュリエが中からゆっくりドアを開け、男の手を取り迎え入れる姿が見えた。僕は何故だか居ても立っても居られなくなり、しばらくジュリエの窓の下で意味もなくうろついてみたが、何の物音も声も聞こえてはこなかった。その日は帰宅後もずっと、上目遣いのジュリエのはにかんだような顔が頭から離れなかった。
翌日からジュリエの窓が開く事はなく、僕は(あの男はロミオって奴で、ジュリエを連れて2人で遠くに旅立ってしまったんだ)と思った。女子達は喜んでいたけれど、ジュリエのいない通学路は僕にとって全然つまらないただの道になってしまった。
2週間後、アパート住人の通報で、変わり果てた姿のジュリエが発見された。部屋にはクスリが散乱していたとか、金目のものがあらかたなくなっていたとか様々な噂が飛び交ったけれど、真相はよく分からない。僕も警察にあの時のロミオの事を何度か聞かれて話した。あれだけ道で大声を出していたのだから他にも目撃者が数人いたようだが、ロミオの足取りは依然掴めていない。
大人達の中には無神経にも
「変な人がいなくなって安心したでしょ。」
と笑顔で話しかけてくる人もいた。そんな時、僕は曖昧に頷きながら空っぽの時間をやり過ごした。
長い冬が終わりの兆しを見せ始めた3月。ジュリエの窓を見上げる僕の横を、下級生達が楽しそうに笑いながら駆け抜けて行く。どんなに煩く騒いでも、もう決してあの窓が開くことはないのだ。
僕はもうすぐ小学校を卒業する。そうしたらもうこの通学路を通ることもないだろう。ボロアパートは事件以来、もともと少なかった住人達がほぼ出て行ってしまったらしい。そのうち寂れて取り壊されてしまうかもしれない。
結局ジュリエの事を僕は何も知らない。なのにどうして今ここで涙が流れるのだろう。ひとつだけ分かっている事といえば、最近初めてまともに読んだあの物語のラストが悲劇だという事。ほんとうにただそれだけしか僕は知らないのだ。
end
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