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【思い出話】団地


コンクリートの階段は昼間でも薄暗くて、五階建てなのにエレベータもなくて、部屋の窓には錆の浮いた鉄格子がはまっている。
___私は、小学三年生までそんな団地の二階に住んでいた。よく、窓の縁に腰掛けて、鉄格子の隙間から足をぶらんと投げ出して、外に向かってリコーダーで下手くそなエーデルワイスを吹いていた。ミーソレードーソファーミミミファソラーソー。今思えばあんなボロい鉄格子をどうして心の底から信頼していたのだろう。全体重をかけて寄りかかっていたけれど、下手をすれば二階から下の自転車置き場に真っ逆さまのはずだ。
でも、おかしな話だが、幼い私は鉄格子だけでなくあの団地の事を心の底から信頼していた。団地は私の暮らしの基盤であり、決して私を裏切らず、揺らぐことなくただ確かに私の毎日に存在していた。
階段の途中に座っているヤンキーのお兄さん達も、高い高いが行きすぎて赤ちゃんを空中に放り投げるO君ちのお父さんも、鍵が空いていれば勝手に入ってくるN家の三兄弟も。
団地も団地の人たちも、みんな私の事を受け入れ、守り、私の方もそんな全てに全幅の信頼を寄せていた。
振り返れば、私はあのとき世界の全てを信頼して生きていたのだと断言できる。

___いつからだろう、世間の事も他人の事も素直に信じられなくなったのは。まず疑うようになったし、ボロい鉄格子に体を預ける事もないし、ヤンキーは普通に苦手だ。きっと、大人になるにつれて経験が増え、成長したと言えるのだろう。そう、これは成長。
だけど私は、今も時々どうしようもなくあの団地に帰りたくなってしまう。ミーソレードーソファーミミミファソラーソー。

〈終〉

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