ユーラシア大陸を放浪した話|旅行記
新卒で入社した会社を辞め、バックパックとリュックを背負って、ユーラシア大陸を旅したことがある。
放浪の旅に出るにあたって、1つだけシンプルなルールを決めた。
「飛行機を使わないこと」
べつに、たいした理由じゃない
さて、私が旅行した2019年当時、ヨーロッパではフライトシェイム(英語:flight shame)なる言葉が流行していた。日本でも人気ドラマ「逃げ恥」と掛けたのか「飛び恥」と訳されてメディアで取り上げられていたので、覚えている方もいるだろう(その後、コロナ禍により世界的に旅行どころではなくなり、この言葉も聞かなくなった)。
――が、特にこの運動に共感していたわけではなかった。
ただ、漠然と「ユーラシア大陸の大きさを実感したい」と思ったのだ。
それと、陸路で国境を越えるということにロマンを感じていた。
また、心のどこかに、父が学生時代に行ったという海外放浪への憧れがあったのかもしれない。
いずれにしても、船、鉄道、バスを乗り継いで約4カ月間の旅をしたのだった。
ざっくりと振り返ってみる
当時、日本とロシアを結ぶ航路は、境港(鳥取県)-東海(韓国)-ウラジオストク(ロシア)のみ。
天候にも恵まれ、2泊3日の快適な船旅だった。
さて、ロシアといえば、シベリア鉄道!
ということで、ウラジオストクからモスクワまで、途中下車を含めて約1週間、寝台列車に揺られながら移動した。
初めての陸路での国境越えは、ロシアーベラルーシーポーランドであった。
パスポートコントロールをめぐる、寝台列車内で起きたささやかな出来事については、いつか少し詳しく書きたい。
とにかく、このとき国境を越えることの大変さを初めて目の当たりにしたのだった。
シェンゲン協定国内に入った後は、国境を意識することは少なくなった。
ただ、陸続きといえども、国や地域によって、風土もたどった歴史も異なることは常に強く感じた。
ここに地が終わり、海が始まる……
さて、ロシアを出た後、ヨーロッパの鉄道やバスを乗り継ぐこと約2ヵ月。
ついに、念願のポルトガルのロカ岬にたどりついた。
ユーラシア大陸の最西端である。
観光客は溢れんばかりにいるし、潮風は荒れ狂っているしで、ロマンチックからは程遠い光景だったが、それでも、極東と呼ばれる地域から大陸の西の果てに2ヵ月もかけて来たのだ、という奇妙な充足感、高揚感があった。
南欧、そしてバルカン半島を南下する
このあと、イベリア半島を折り返してバルセロナからフェリーでローマへ。
イタリアの都市をいくつか訪れて、バルカン半島を南下し、ギリシアを通って陸路でイスタンブールにたどりついた。
ただいま、アジア。
とはいえ、イスタンブールはヨーロッパとアジアの境目の町。
バザールの熱気やモスクなどは明らかにヨーロッパとは異質だが、19世紀以降に造られた新市街は近代ヨーロッパと地続きに見える。いわんや現代的な高層ビルをや。
一方、カッパドキアは、広大な大地に奇岩の数々、そして古代の地下都市など、ヨーロッパとは大いに違っていたものの、ギリシアのメテオラと通じるものがあり、興味深かった。
トルコの隣国はシリアやアフガニスタンなど、政情の安定しない国が多いのと、謎の腹痛に襲われたので、飛行機での帰国を決意。
出発から実に約4ヵ月が経っていた。
感想
ユーラシア大陸は広かった。
たくさんの国があり、地域があり、人々が行き交っていた。
素晴らしい建物があり、美しい作品があり、美味しいものがあった。
古代から現代に至るまでの、連綿とした人の営みがあった。
それらすべてが、ひとつながりの大陸の上で繰り広げられてきたかと思うと、愛おしいような、くすぐったいような、感傷的な気分になる。
また、それだけに、今回断念したアジアの国や地域の状況に心が痛む。私にできることはほとんどないが、常に関心は持ち続けようと思う。
それと、この度のコロナ禍を経て、旅行の素晴らしさと、旅行できることの有難さが身に染みて分かった。
来年はオーストラリアや東南アジアの国々をめぐるつもりだ。
いろいろなものを噛み締めながら楽しんできたい。
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