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自分のnote記事を、より「自分らしい記事」にする方法

昨年末、私にはnoteでどうしてもやりたいことがあった。
 
それは、過去に書いた「ある記事」を加筆修正すること。
 
小学校低学年の時、担任の先生に「作文がヘタ」だと言われたことで、アラフィフになった今も文章を書くことに対して苦手意識を持っていることを綴った記事だが、後半からラストのくだりが「面白くない皮肉やイヤミ」で終わってしまっていた。
 
書いたその時はそれでいいと思ったし、ずっとモヤモヤしていた負の感情をカタチにしたことで多少はスッキリしたのだろうと思う。
 
しかし、たまたまその記事を数か月ぶりに読み返したら、なんだか不快だった。そして、その不快のもととなっているのは何か、と考えた時、そこにあったのは「ネガティブな感情」だった。
 
 いつか「修正しなきゃ」と思いつつ、つい先延ばしにしていたが、時間の経過とともに、その記事を「恥ずかしい」と思うようになり、いよいよこれは何とかしなければと、年末に修正をした。

この記事を書いた時はもちろん、そののち数か月間はそんなこと、思いもしなかった。

年末ギリギリに加筆修正し、改めて読み返したとき、私はそのことにホッとしつつも、あることに気づかされた。それは───

心の変化に怯えることなく「どんな自分も受け入れる勇気を持つことの大切さ」だった。

 
自分が書いた記事というのは、そのときの自分、もっと言えば「自分の心」を映し出す鏡だ。
 
人は自分の心を通して、日々いろんなものを見たり聞いたりしている。心の周波数と合ったものが、心のテレビに映し出され、心のラジオから流れてくる。
 
心の周波数が合わなければ、誰かの姿も誰かの声も、映らないし聞こえない。そこにあるのはただの砂嵐であり、耳障りなノイズ。心に届かないのだ。
 
ただ厄介なのは「心の周波数」は常に同じではないということ。いいことがあれば嬉しい、ツラいことがあれば悲しい、天気ひとつで気分は上下し、誰かの言葉や態度で一喜一憂する。心の周波数は常に変わり続けている。
 
つまり、心の状態が常に同じではないのだから、過去に自分の書いた記事が、今の自分とマッチしなくなったとしても不思議ではない。同じ記事なのに、その時の気持ちや心のありようでとても響いたり、逆に全く刺さらなくなってしまう。
 
昔読んだ時はあんなに感動した本なのに、今読んだら内容が薄すぎて醒めたとか、こないだまで夢中で聴いていた曲なのに、今は聴きたくもないとか。誰もが一度はそんな経験をしているのではないだろうか。
 
 
書くことで、「その時」の自分の心や想いをnoteに遺していく。例えばそれは真面目に書こうが、ちょっとふざけていようがあまり関係ない。とにかく、「その時の自分」をひとつのカタチとしてそこへ「置いていく」ことに意味がある。
 
そして、数日後、数か月後、あるいは数年後にそんな「心の遺作」を掘り出した時、自分のその時の心や想いが蘇る。もちろん、ただ懐かしく思ったり、ノスタルジーに浸るのも悪くないが、今の自分と比較して、自分がそこからどう変わったのか、どう変化したのかを時々自分なりに考えてみるのも一興いっきょうだ。
 
 
人間、歳とともに見た目が変化していくように、中身だって変化していく。よりよく変わっていく人もいれば、残念ながらそうではない人もいるだろう。そして、変わらなきゃいけないこともあれば、変わってはいけないものもきっとある。
 
noteを書くことで、自分自身の心や気持ちの状態や、その移ろいを楽しむことが出来ることを改めて教えられた気がした。

 
きっと、私が書いた過去のその記事は、もう今の私の心とは周波数が合わなくなってしまっていたのだと思う。だから、その記事に今、心の周波数を合わせても、後半部分はノイズにかき消され、見えず、聞こえなくなっていたのだろう。加筆修正した今はノイズも消え、視界は良好だ。
 
ただ───
いつまた突然周波数が合わなくなるかはわからない。人の心はあまりに移ろいやすく、曖昧で、そしてもろいから。
 
 
以前、あるnoterさんが「簡単に修正したり加筆することが出来ることがnoteのメリットの一つ」と書いていた気がするが、その時は特に何とも思わなかった。しかし、実際に自分が過去の記事を加筆修正した今だから、思う。

noteの記事は「未完成という名の完成品」なのかもしれない、と。
 
雑誌や本、映画などと違い、noteは修正したいと思えばすぐに修正ができるし、いつだって書き換えることが出来る。いくらでも、何度でも、チャレンジしていいんだ、そう言われている気がする。
 
「過去の自分(記事)」から学びを得て「未来の自分」に繋げる───

まるで、過去の自分の記事が「反面教師」となって、今の自分をいましめているようだ。
 
もちろん、自分が生み出した記事をそのカタチのままにしておくのもいいし、心の周波数が合わなくなって読みづらく、聞きづらい記事を都度、自分が読みやすくそして聞きやすい、つまり自分の心が求める記事へと変えていくことも悪くない。
 
それはアップデートかもしれないし、あるいはダウングレードかもしれないけれど、その結果生まれた記事は紛れもない、純度100%の自分だけの記事、「自分らしい記事」になっているはずだ。
 

人はどこかで「成長」が止まり、そしてどこかから「老い」ていく。しかし、精神や心といった「人間の成長」はその人が諦めない限りどこまでも、ゆける。
 

記事は生きている
レコードに針を落とすように、自分の記事に心の針を落としてみる。
 
昔の記事にはノイズが多いかもしれない。そこで私のように記事を修正するもよし、そのままの自分を受け入れるのもまた、よし。多少のノイズが入っていたとしても、それはそれで味わい深かったりするものだから。
 
 
noteには「書く人」だけではなく「読むだけ」の人も多いと聞く。その中にもし、書くことが苦手な人や苦手意識を持っている人、興味はあるのにnoteを始める第一歩が踏み出せないでいる人がいたら───
 
noteというのはオリンピックの100mのような一発勝負ではない。誰もが助け合い、励まし合いながら「創作」を愉しむ「憩いと癒しの場所」だ。

だからこそ、チャレンジしてみるといい。
 
もちろん、書く場所としては、プロフェッショナルな書き手だったり各界の著名人の方々と同じ舞台で競い合える、まさにオリンピックのような場所ではあるが、フライングしただけで即失格にはならない。
 
仮に、はやる気持ちや勢いで記事を書いて載せたとして、もしあとになって「やっぱり、こう書けばよかった」とか「あの部分を直したい」となれば、いつだって直すことが出来る。

私はそこに人生を重ねる。

人生も記事もきっと、諦めなければ何度でもやり直せる。いつからだって、きっと。
 
この記事もいつか、違ったカタチに生まれ変わるかもしれない。
 
自分が書いた記事を半年後、あるいは一年後に読んだとき、そのときの自分はどんなことを思うだろう。

「恐れることなく、変化を楽しむ」
 
私の中で、noteを書く愉しみがまた一つ、増えた。

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