鉄は熱くなってから打て
二十代半ば、私は2年間ほど長野県の、とある山小屋で働いていた。
日帰り登山として人気な山の9合目。
夏休みのピークシーズンを終えると、平日は登りに来る人もわずかになり、夕方はその山に私一人になる。
暇な時間は、薪割りをしていた。
自分の周りにはトンボしかいなくなった山で、ひたすら薪を割る。薪が割れる音が山に響いて返ってくる。
「自分は一体ここで何をしているんだろう、何故ここにいるんだろう」
私は大学を卒業して、バブル最後の就活の波に乗って、アメリカ企業の日本支社に入った。
大学時代、日本で当時最大の学生サイクリング部のリーダーをしていたので、会社に入っても上手く世間を渡れると思っていたが、全く駄目な社員に落ちていった。
仕事ができなかったし、こんな仕事を一生したいとも思えなかった。
2年で会社を辞めて次に始めたのは、一人で常駐する山小屋の仕事。
会社で人並みに働けなかったことは、深い挫折だった。
ふと、薪を割っている斧を見つめた。
斧は面白い。斧は先が尖り過ぎていてはいけない。木に刺さったまま抜けなくなるかららしい。
刃物なのに研がなくていいなんて面白い。
そうか、刃物にも色々ある。手術用メスもあれば、こんな斧もある。
メスが薪を割りたいと思っても、斧が手術で使われたいと思っても、それは無理だ。
メスはメスとして、斧は斧として本分を発揮してこそ幸せになれる。
自分が刃物なら、何だろう。
カッターか、家庭用の包丁か。
会社が全く合わなかったのは、メスを必要とされる場所に斧が行ってしまった、ということか。
いつか、自分という刃物が活きる場所を見つけられるだろうか。自分は何者か。
同じ種類の刃物にもピンからキリまである。
良いものもあれば、粗悪なものもある。
鉄であれば、熱を加えて形を作って行く工程で、差が出るのかもしれない。
鉄は熱いうちに打て、という。
人間が成長する時に大事なことわざとして、使われる。
自分は、熱いうちに打っただろうか。有望な人間に比べたら、中途半端だ。
しかし、終わった時間は仕方がない。
例え、自分が安い家庭用の包丁程度の鉄だとしても、丁寧に取り扱い、適度な研ぎを忘れず、その刃物として最善を尽くすしかない。
山小屋の秋の夕暮れにふと思ったことを、今でも時々思い出す。
ところで話は変わる。
天ぷらで揚げるのが難しいのは「かき揚げ」だ。
家業の天ぷら屋を継いだ初期の頃は、かき揚げのタネを鍋に入れると、鍋中に散ってしまったり、逆にボテッと饅頭のようになってしまい、揚げるのが苦しかった。
今では普通に店頭に出せているが、それでも難しいと感じる。
最近になって、かき揚げを揚げる時のコツを1つ見つけた。
今でも、かき揚げのタネを油に入れた時に散ってしまうことがある。散ったらすぐにそれを一つの丸になるように集めていたが、入れて2秒くらい待つと、揚げている音が微妙に変わって、そのタイミングで丸くまとめると、すんなり見事に見栄え良くまとまることに気づいた。
25年経ってようやくだ。
その時に言葉が浮かんだ。
「天ぷらは熱くなってから作れ」と。
その時、「鉄は熱いうちに打て」だけでなく、「鉄は熱くなってから打て」とも言えることに気づいた。
鉄が熱くなる前に、思い描いた形を作ろうとしても上手くいくわけがない。ストレスが溜まるだけだ。
天ぷらの話だけではない。
親は、子供が生まれてすぐに、将来こうさせたいからこういう教育を、と始めるのではなく、まずは熱くさせるのが本筋かもしれない、と思ったので、こんなことを書いてみました。
今日は何となくこの曲でお別れです。
おやすみなさい。