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映画『ドラえもん のび太の新恐竜』を見てどうしても語りたかったこと

今日は暑い中、どうしても映画『ドラえもん のび太の新恐竜』が見たかったので、TOHOシネマズなんばで13時25分からのSCREEN 2での上映を見に行った。

https://doraeiga.com/2020/index_pc.html

なぜこの時間にしたかというと、SCREEN 2というかなり広い部屋で、大きなスクリーンで上映される回だったからだ。やはり、特別感のある映画は少しでも大きな画面で見たかったのだ。

そもそもこの映画を見ようと思ったきっかけは、映画第1作『のび太の恐竜』(1980年)を親に連れられて見に行ったのが、私が映画館に行った初めての経験であり、その公開40周年を記念した本作がどのようなものになっているのか、気になったからだった。

だが、見てみたところ、色々と心動かされるところがあり、終わりの三分の一くらいずっと私は、映画を見ながら泣いていた。

鑑賞直後のツイートとしては以下のようなことを書いた:

私は終わりの方ずっと泣いてたし、右側に座ってた女子大生風の女の子もそうだった。最近のドラえもんの映画は説教臭くてイマイチだという批判もあるけど、素直によい映画だと思えた。... 私も人と同じようには器用に出来なかった人間なので、キューとのび太には共感できた。

この映画の中で、私が一番感動したのは、キューが双子であるミューと同じようなことができず、不器用で無様なことをやっていることに、深い意味があったということだ。

これは福井新聞の記事に書かれている次のような事柄である。

「一見、他より劣っていると見えることが、実は進化にとって第一歩になることが生物史を見るとはっきり分かります。恐竜の世界でも、実際そういうことが起きています。取材を通じてそれをメインテーマとして描くべきだと明確に思いました」

 「現実の世界でも多様性が叫ばれる中、それはきれい事ではなく、人類の進化への歩みであるということです。欠点だらけに見える弱い少年のび太と、小さな新恐竜が、進化や成長への第一歩を踏み出すという、そのことの尊さや真実が伝わればと思います」


私はこの映画に対する思い入れが強くなりすぎて、帰り道にこの映画のシナリオを小説化したものを買ってしまったくらいだ。

この小説版のp. 178で、のび太がキューを飛べるようにしたくて、飛ぶ練習に付き合っている場面が出てくるが、そこで:

キューは進歩しない。まったく飛べるようにならない。不格好に頭から地面に突っ込んでしまう。...

「ああん。そうじゃないってのに! どうしてみんなみたいにできないのさ!」[のび太は]思わずそうさけんでしまった。いつの間にか声を荒げていた。

実はこの手の言葉、不器用で要領の悪かった私が、小学生の頃に先生や、時には親から、言われていた言葉なんだ。

「どうしてみんなみたいにできないの?」って言われても、一生懸命やろうとしても、みんなと同じ早さではできずに、「グズ!」「ぶきっちょ!」と罵られていた私は、できない自分のことがどんどん嫌いになっていった。

でもね、この映画の中では、キューの無様な動き(他よりも劣っていると見えること)が、実は進化にとって第一歩になることだったんだ[ネタばれになるのであまり詳しくは述べません。小説版ではp. 230以降で詳述されています。「では……、あの新恐竜の無様な動きは、○○の前兆だったということか…….。なんということだ」…「欠点と思われていたことが、進化のきっかけに…….」という部分です]。

要領が悪く不器用で無様な私は、自分にできることを愚直にやり続け、いい指導者や友人に恵まれ、それをいつしか評価してくれる人が現れ、今の大学教員という地位にいる。

要領よく生きていたら、絶対今の職業には就いていなかっただろうし、普通に色んな面を、要領よく妥協して、親に気に入られるよう公務員として働き、親の勧める相手と男性として結婚し、子どもを育てていたのかもしれない。

ただ、私と同じように、人と同じようなことを同じペースでできない人は、世の中に一定数はいると思うんだ。

そしてそのようにできないことを叱られたり罵られたりしてきて、いつの間にかそれが自分のコンプレックスになってしまった人もそれなりにいると思う。

つまりね、みんな、ある決まったことをやる能力は同じでなきゃいけない、それができない人は「規格外」だ、「出来損ないだ」と見なすような多様性を無視した価値観の犠牲になり、コンプレックスを抱いた人が、私を含めて一定数いると思う。

そのようなコンプレックスを抱いてしまって、自分を好きになれない人には、小学生であれ大学生であれ、何らかの形で機会があれば、この映画を見てほしい。

この映画を見ることによって、あらゆる面に関して人と同じことを人と同じペースでできるようにならなくてもいい、人より劣っている面があっても必ず優れている面もあるはずだから、優れている面の方を伸ばしていけば、いつか何かに繋がる、といったことを感じて、コンプレックスが少しは解消されるはずだから。

eiga.comに批判的なコメントを書いている人もいる。ミューのようにそつなく物事をこなし、社交性があり、先生に気に入られてきた人には、この映画のそうした面は理解できないのかもしれない。

でも私は、この映画を見て素直に感動できたし、キューとのび太の成長に共感できた。よい映画で、見て本当によかったと思った。

私の横でずっと泣いていた女の子も、ひょっとすると、私と同じように、人と同じことを同じペースでできなくて、叱られて落ち込んだ経験があったのかな、なんて思った。

とりとめのない下らない感想かもしれないが、どうしても私はこれを語りたくなったんだよ。


p.s. この映画のレビューにとてもよい感想があったので追記します!

https://eiga.com/movie/91484/review/

>>りょうさん 2020年8月9日 鑑賞方法:映画館
>>父子で鑑賞しました。恐竜の赤ちゃんに対するのび太の懸命なお世話と、ミュー、キューのかわいらしい成長に、息子(5歳)は常に満面の笑みを浮かべていました。

>>私が子供のころから慣れ親しんできたドラえもん映画。父としての自分も重ねながら観させて頂きました。のび太は、恐竜を「育てる」ことによって「大人」になり、「親」になり、そしてまた、「子」の姿をみて、自分自身の弱さに気づき、時に葛藤しながら自らも成長して新たな関係を築いていく—最後の方では、子供に知られないようにこっそり涙ぐんでおりました。

この、のび太の成長が顕著に表れているのは、小説版の以下のような部分です。

「キュー......。さっきはごめんね。『なんでみんなと同じにできないの?』なんて言っちゃって……」「キュウ……」「ぼくね、わかったんだ。みんなと同じになりたいんじゃない。ぼくね、できなかったことをできるようになりたいんだ」(p. 185)

「ひどいこと言ってごめんよ。ぼくだって何もできないのにさ」「キュー……」「でも、ぼく、いつかできるようになってみせるよ。だからキュー。君も」(p. 186)

これはまさに、のび太が自分自身の弱さに気づき(awareness)、それと向き合い葛藤することで成長できたことを表しています。

結局、『ドラえもん のび太の新恐竜』は、初代の『ドラえもん のび太の恐竜』と同様に、のび太が恐竜を育てることによって、自分も成長する、ある種のビルドゥングス・ロマーン(教養小説)的なストーリーで、恐竜を育てるのび太は数々の気づき(awareness)によって、より人の気持ちのわかる人間になるのです。

実は、大学教授の私も、学生を「育てる」ことによって「オトナ」になり、「学生」の姿をみて、自分自身の弱さに気づき、時に葛藤しながら自らも成長して新たな関係を築いてきたのだと、このりょうさんという人のコメントによって気付かされました。

人は「育てる」人との関係性によって、葛藤しながら自らも成長して新たな関係を築きます。親と子、教師と生徒・学生、先輩と後輩、上司と部下、みんなそうなのではないでしょうか?

人と関わるのを拒否し続ければ人は成長しない!

生来の性格は人嫌いの、陰キャ・引きこもり体質であった私自身が、大学院生の時期までは、人と関わることをできる限り避けてきて、人間的にまともに成長できず魅力のない人間でした。

今当時のことを振り返ると、人と関わるのを拒否し続ければ人は成長しない!ということを思い知らされるのです。

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