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話し方は一通りでは全ての人には通じない

昨日の投稿の続きになる、第2段。
ただ生い立ちを書いてるみたいに今のところなっている。

今回は割とお勉強そのものの話。


〇科目の好き嫌い、
 得意不得意はどこから来るのだろうか

小学生の頃、私が好きな(得意な)科目は、理科、算数、音楽だった。
一方、私が嫌いな(苦手な)科目は国語、図画工作、体育だった。

以前書いた私がお絵描きが苦手だった話を読んだ人であれば、
音楽が好き、得意というのは違和感を持つかもしれない。

これにはある理由があって、
私は家で母親からピアノをずっと教えられていたことによる。
(話が変わってしまうのでまた別の機会にこの話は書きたいと思う。)

まあ好き嫌いや得意不得意なんてものは生まれつきというか、
それぞれの個性みたいなものだろうし、
先生の教え方や授業がいいとか悪いとか、
それによって物事のわかりやすさや身に付き方が違うなんて
当時は考えたこともなかった。

好きな科目、得意な科目はたまたまそうで、
嫌いな科目、苦手な科目もたまたまそう。

学校で習う以外に、別に誰かに教えてほしいと思ったこともない。
苦手な教科を克服したいというような向上心(?)も特になかった。

塾に行ったこともなければ家庭教師を呼ばれたこともない。

同じことを同時に2人以上の人から教えられるなんてことは
ほぼなかったので、比べる対象がなかった。

だから幼い頃の私は、好き嫌いや得意不得意は
たまたま自分はそうなんだとしか思っていなかった。


〇「嫌いな教科、苦手な教科」が
 「好きな教科、得意な教科」になる経験

中学校になると、先に挙げた3つの苦手科目はそうでもなくなっていった。

それぞれ理由はあるのだが、
教える人が変わったことで一番変化があったと印象づけられたのは国語だ。

もともと私にとって、書く・読むは苦痛なことだった。
しかし中学校に上がり、授業が始まって1か月もしないうちに、
既に国語の印象は変わっていた

国語の問題には、作者の気持ちを述べなさい
それを表している部分を抜き出しなさい、みたいな問いがよくある。

当たり前のことのように感じる人もいるかもしれないが、
そういったことは本文に書かれている、示されている、というのが
国語の問題の作り方だし、解き方だ。

私はこれがとにかくよくわからなかった。

私にとっては
書いてあることは書いてある通りだし、
言ったことは言った通りの意味だし、
読んだものは読んだ通りの内容にしか思えなかった。

つまり、問いの答えは本文にあるという感覚はなかった。
読むことによって一体何がわかるというのか。

だからテストでも本文を読まずにいきなり問題文を読んで、
指定の傍線部分や指示語を探してそこだけを読み、
「んー???」と思いながらよくわからんなって思っていた。

今にして思えばそれは無理があるだろうと思うけれども、
私にとってはそのくらい文章を読むということの価値はなかった

しかし、文章を読むと文章を書いた人の気持ちや考え方、
人となりや思想
と言ってもいいかもしれない、
そういったものが見えてくると中学校に上がって初めて感じられた。

同時に、こちらの読み方によっても
どのように読み取っていけるのかが変わってくるのだ
ということも感じられた。

書くことについても、手を動かすめんどくささが抜けきらなかったが、
自分の考えや思いを表現するために言葉を適切に置いていく
と思えるようになると、面白く感じた

こうして、私の国語の印象はずいぶん変わった

書くことも読むことも作業だったものが、考えてする対象になった。
(これもまた別の機会に詳しく書ければいいなと思う。)

これは、その先生に教えてもらったからだとはっきりと思えたし、
教える人によってわかりやすさや身に付き方が違うと
一番感じた瞬間
だろう。

私は学校の教科でいえばどちらかというと理系の方向へ進んだ。

それについて不満は特にないけど、
あの時から最も好きで得意なのはもしかしたら国語なのかもしれない。


〇誰かにものを教える経験

高校生の頃、同級生や後輩に数学やら化学やらを
聞かれて教えることが何度もあった。

宿題はまあぼちぼちやってはいたけど、
自主的に課題の量を確保するようなことはなかった。

しかし、真面目な人は結構いるようで、
参考書を買って勉強したり、問題集を自分で解いたりとしていた。

まあ普通に出される宿題だったり、
その見たことのない問題集だったりについて聞かれることが
中学生までに比べると急に増えた。

その時に感じたことは、
人によってどう説明したらわかるのかは
それぞれによって違うことがある
ということ。

特に数学の模範解答というのはわかりにくくて、
私自身で読むときもそうだけど
時々解法の中によくわからない式変形なんかが
例えばあったりする。

そうなるとそこには解読が必要になる。

そして、自分が読むだけなら解読だけでいいが、
誰かに教えようとすると
今度はそれを更にその人のために翻訳
する必要がある。
だから自分が教えるのは、同時にその人からの答え合わせになる。

これが何だか面白かったし、なんとなく充実した感じがあった。

進路選択はなんとなく理系を考えていたが、
人にものを教えている時間というものが
自分の中ではその人を知る時間みたいになっていた。

前回の記事に書いたような、
勉強以外の教育にまつわる問題・課題について考えることも
自分にとっては自然なことだった
し、
はっきりと教師になりたいとまで思っていたわけではないが、
結果的に教育に縁のある進路を選んだ。

考え事や書き物に時間をより多く割こうとした時に、 サポートを受けられることは大変助かります。 次もまたあなたに価値ある投稿となるとは約束できませんが、 もし私の投稿の続きに興味や関心がありましたら、 サポートいただけると幸いです。