学校はみんなの居場所になり得るか
書き物の中でも、
少し絞った内容について書きまとめるものをつくろうと思えた。
この投稿はその1回目になる、予定。
私が教育に関心を持ったであろう最初の時期は多分ここだろう。
古い記憶を呼び起こすのであやふやな部分は多いが、
今以上に忘れる前に書いておく。
〇どこにでも起こり得ること
幸いなことに(?)、私は学校に行きたくないと思ったことはあまりない。
小中高大と、毎日のように授業を受けに行って
先生や同世代の人と会って過ごす事に強い違和感や忌避感などを
抱いたことはぱっと思い出せる範囲にはない。
いろんな勉強ができるし、まあそれなりに楽しいし、
だからわざわざ行かないという発想がまずなかった。
しかし、想像できることはあった。
特に小中学生の頃には
この人はいじめられているようだ、と認識していた人もいた。
そういった人と接する時には何か普段とは違う不安があった。
不安と言っても、その人自身を嫌いだとか、
あるいは自分も一緒にいじめられるんじゃないか、とかではない。
むしろ自分がいじめられるかもとか想像したこともない。
ただ、接し方を間違ったら、
この人は、クラスはどうにかなってしまうのではないか、という不安だ。
私が小中学生の頃、
テレビでは教師に焦点を当てたドラマがいろいろとあった。
めずらしく私の見る習慣となる類のものとなっていた。
近年はテレビをほとんど見ていないのであまりわからないが、
今よりも教師や学校を中心に扱うドラマが多かったのではないだろうか。
そこでもいじめだったり、教師と子どものすれ違いだったり、
教師や子どもの不気味な行動や犯罪めいた行為だったりと、
様々なことが描かれた。
そんな中で、学校に行きたくない人がいる、
学校やその周辺でそういった事情が発生し得る、
ということは想像できるようになった、のかもしれない。
〇自分の想像を超えたもの
また、当時自分が敏感になっていただけなのかもしれないが、
その頃には少年事件の報道も目立ったように思う。
ニュースで不穏な少年事件が報道されて、
それほど年の差もない誰かがその思想や感情の中に
私には想像し難い何かを持っていることがあるのだと思わされた。
ドラマではなく、現実の事件としてそれが存在することが示された。
小学校高学年か中学生の頃に書いた意見文かなにかに、
(細かい内容は覚えていないし、それを発表することも特になかったが)
みんな学校に来たらいいのに、
私から見た学校って割といいところだよみたいな内容を
書いた覚えがある。
不登校という現象は少なくとも私が子どもの頃にはあり、
私の同級生でも学校にほとんど来なくなった人が
少なくとも2人はぱっと思い当たる。
いつの間にか学校で見かけなくなった人。
いつからいないのかはっきりわからない。
転校したというわけでもなさそう。
転校した誰かも、
もしかしたら似たような事情を違う方法で解決したかったのかもしれない。
だが、その人だけではない
もう少し得体の知れない何かに訴えかけるような気持ちもあった。
そういった人達も、私はみんな学校に来て生活することで、
様々な形でそれぞれなりの居場所ができていくと思っていた。
このように書くと、
まるで私がクラスの中心にいる人気者の生徒みたいなイメージを
持たれるのかもしれないが、
どちらかというと教室の隅でひっそりしているほうのタイプで、
少なくとも表立ってみんな仲良くしようよとか、
クラスでまとまって何かしようとか言うようなタイプではない。
むしろみんなが誰とでも仲良くなんてできないと思っていたし、
そもそも自分自身が相手を選んでしか接したくなかったくらいだ。
ただ、生活として学校に来るという習慣を持たされているのに、
それが苦痛なのは自分には理解できないほど辛いのだろう
と思っていただけだ。
学校っていいところかもと思えることが救いになると信じたのだろう。
〇学校へのこだわり
今でこそ、フリースクールもあるのだし必ずしも学校ではなくてもいい、
という認識もあるが、当時は全くそんなことは知らなかった。
少なくとも当時の私は、
学校に来ないなら多分家にいるんだろうくらいの認識。
学校ってとりあえずみんなが行くところだし、
そこで問題がなければ学校でいいだろう。
だから“いい学校である”ことが大事なのだと思った。
しかし、当然子どもも先生もいろんな人がいるし、
子どもは何年かしたら別の子どもに入れ替わり、
先生も何年かしたら他の学校へ行ってしまう。
だからなのか、こんな子どもたちだったらとか、この先生がいたら、
ということはあまり考えたことがなかった。
ただ、学校で朝から放課後まで安心して過ごせること、
そういう学校の居心地の良さは大事だと思った。
フリースクールなどを運営している人や
そこに通う人を否定する気は特にないが、
日本のシステム的にも、学校だけで問題なく平和に済むなら
多分それでいい気はする。
これは私の想像に過ぎないが、
おそらく学校ではない場所をつくったりそこに通ったりするきっかけは、
言い方は様々あるだろうが大きくまとめれば、
学校では無理だから、ではないだろうか。
だから問題は、
学校だけでは問題なく平和に済む状態ではない、ということだろう。
その問題を、どのように解決を図るかはいくつかの方向性があるだろうが、
私が思っていたのは、学校をよくすること、だったのだろう。
だから教員になろうとした、教育の道を選んだ、とまでは思っていないが、
私が学校や教育に関心を持ち始めたのはおそらくこのあたりだ。
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