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サステナブル経営を「やりたいこと、やるべきこと、やれること」のフレームワークで考える

 日本人の大好きな経営学者であるピーター・ドラッカーが生み出したとも、アメリカ陸軍で洗脳研究を手掛けた後にキャリア研究に移行したエドガー・シャインが生み出したとも、言われる「やりたいこと、やるべきこと、やれること」のフレームワーク(図表含めて田澤2018)。

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 このフレームワークに基づいて、最近話題のサステナブル経営について考えてみるのが、この記事の目標です。

企業の「やりたいこと、やるべきこと、やれること」

 このフレームワーク、日本の経営者やキャリアコンサルタントが好きなようで、例えば日本最大の企業・トヨタ自動車の顧問兼技監の方が書いた『トヨタの自工程完結』(佐々木2015)という本でも取り上げられています。

 以前の記事(アニメに関心のない人は読まないで大丈夫です)でも触れましたが、この本の著者は、このフレームワークについて、以下のように解釈して説明しています(図表は佐々木2015)。

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・「やるべきこと(Must)」と「やりたいこと(Will)」が近い人は、使命感の強い人

・「やるべきこと(Must)」と「やれること(Can、できること)」が近い人は、能力の高い人

・「やりたいこと(Will)」と「やれること(Can、できること)」が近い人は、わがままで身勝手な人

 つまり、やるべきこと(Must)に重なる部分を手掛けようとしないやつは、わがままで身勝手だ、という主張です。

 さて、このフレームワークは個人の自己分析やキャリアプランニングで使われることが多いですが、「法人」、つまり企業に当てはめてみるとどうなるでしょうか(ここでいう企業は株式会社を想定しています)。

・企業の「やりたいこと(Will)」=企業の経営陣がやりたいこと

・企業の「やるべきこと(Must)」=企業に関係するステークホルダーが、企業に要請/期待すること

・企業の「やれること(Can)」=企業の能力や強み

 私は、こう定義しても大丈夫だと思います。おそらく、一般的な感覚や経営論から、そうズレてもいないでしょう。以下、この定義に基づいて話を進めます。

幸せな時代と、その終わり

 実は、企業はこの半世紀ほど、「やりたいこと」と「やるべきこと」がほぼ一致してきた、非常に幸せな時代でした。つまり、企業の「やりたいこと」と「やるべきこと」は、多くの場合、「利潤を上げること」で一致していました。

 経営陣は利潤を上げて、自分の成果とし、自分の報酬に反映させたいのは当然のインセンティブ(動機)です(=「やりたいこと」)。

 一方、ステークホルダーの要請(=「やるべきこと」)も、利潤を上げることだと、社会的に受け入れられてきました。企業に関係するステークホルダーには、株主が代表的ですが、従業員や取引先、顧客、そして企業活動が影響を与えうる社会や環境も含まれています。なので、企業の社会的責任(CSR)という概念も存在していのですが、「いや、そんな面倒くさいこと考えなくていいよ」と言い切った偉い人がいます。ノーベル経済学賞を受賞した経済学者のミルトン・フリードマンです。

 フリードマンの主張ですが、こちらの先生の記事の内容を参考にしつつ、かいつまんで説明すると…

自由主義経済体制のもとではビジネスの社会的責任は一つしかない。それは利潤を増大させることである。自らの資源を活用し利潤の増大を目指した様々な行動に没頭することである。ただし、それは詐欺や欺瞞のない開かれた自由競争というゲームの範囲内においてである (Friedman 1962)。
企業が利潤の最大化を目指すことは、株主利益の最大化という点から支持されるものである。なぜなら、企業は株主から信託責任を負っており、企業が利潤の最大化を目指せば、それによって株主に配分される利益もまた最大化されるからである。そして、この考え方に基づけば、企業は慈善事業を行うべきではないことになる。なぜなら、企業が慈善事業の資金を費やすことは、株主から信託されている資本をそうした活動に費やすことにつながるからである。慈善事業は、個人が自らの判断ですべきことであって、ビジネスがそれを行わなければならない理由はない。つまり、株主の提供する資本を経営者の嗜好に使ってはいけないのである。そして、フリードマンは慈善事業がビジネスに役立つ(例えば巡り巡って利益につながる)と考えているのなら、それは不純な動機に基づく偽善行為であるとも述べている (Friedman 1970)。

 このようにフリードマンは企業の社会的責任を徹底的に経済的な利潤の追求に見出しています。利益を上げることが企業の社会的責任である、なぜなら企業は株主にのみ責任を負っているからだ、という話。利益を上げて、経営陣の報酬を上げて、しっかり株主還元できる企業が良い企業。つまり企業の「やりたいこと(Will)」=「やるべきこと(Must)」=利益を上げること、「やれること(Can)」は利益追求に全力投入すればいい、という状況だったのです。

 まさに「やりたいこととやるべきことが一致」して「世界の声が聞こえる」ような、幸せな時代でした。

 が、2008年のリーマンショック以降、経営陣の高額報酬や利益最優先の経営が批判され、企業の「やるべきこと」が再定義されていきます。「三方良し」とか「社会の公器」とか、それこそCSRといった、社会の課題の解決のために企業はいるのではないかという、少し昔に先祖返りした議論です。

「ズレ」を自覚できているか

 2006年に国連がPRI(責任投資原則)を提唱、そこで示されたESG(環境・社会・企業統治)課題が、リーマンショック後、企業と投資家の共通言語として脚光を浴び、国連が2015年にSDGs(持続可能な社会に向けた国際目標)を掲げるとその動きはさらに加速。日本でも2017年に経団連が企業行動憲章にESGやSDGsを盛り込むに至り、足元では「サステナブル(持続可能)な経営」がビジネストレンドとなりました。

 こうなると、CSRは従来の慈善活動とは一線を画すようになります。企業は、より多くの投資マネーを得るために、事業がいかにサステナブルかを投資家(現在と未来の株主)に示さなければいけない。つまり、社会的に持続可能な利益成長を企業の経営戦略に落とし込む必要があります。

 もちろん、斜に構えた言い方をすると、結局「金」と直結するようになったから、サステナブル経営が普及し始めた、という側面はあります。

 ですが、企業の「やりたいこと(Will)」=「やるべきこと(Must)」ではなくなった、つまり「やりたいこと(儲けること)」と「やるべきこと(社会の課題解決)」にズレが生じてきていることは間違いありません。

 ほぼピッタリ重なっていた「やりたいこと(Will)」と「やるべきこと(Must)」がずれ、その重なりを探す作業が企業に課せられた、ということです。この変化についていけない企業は、いまや、わがままで身勝手な法人と見なされる時代が訪れていると言えます。

 正直、昨今のサステナブル経営ブームの中で、自社がやるべきことを「まだ見えている」と断言できる経営者はかなり少ないのでは、と思います。日本企業が、いつまでも利益偏重の格好悪く、古臭い存在ににならないためにも、社会の公器として「世界の声」が聞こえる存在であり続けるためにも、重要なタイミングが訪れているように思います。

<参考文献>

田澤実(2018)「 キャリアプランニングの視点"Will, Can, Must"は何を根拠にしたものか」『生涯学習とキャリアデザイン』 15(2), p33-38.

佐々木眞一 (2015)『現場からオフィスまで、全社で展開する トヨタの自工程完結―――リーダーになる人の仕事の進め方』ダイヤモンド社

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