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社会持続性への警鐘2/理念と現実と


さて、前回社会の持続性が既存のモラルによりかろうじて支えられていることについてまでは上の記事で記載した。

ここからは、一見モラル的に正しいと見えることがどのように社会持続性に対して悪いのか、をいくつかの例示を持ってて上げていきたい。

キリスト教的社会規範の矛盾

キリスト教的社会規範は、そこから発生した法体系をもした社会システムを持つ現在の日本に大きな影響を与えている。そしてそこに生きる僕らにもまた大きな影響を与えている。

具体的には社会契約論から始まり、富の再分配の仕組み、権力の分散、一妻一夫制度や、男女とも貞淑さを重視する性風俗までに至る所に張り巡らされている。欧米から発したキリスト教的社会規範と社会システムは、経済発展のピークに至り教育が充実するまでの仕組みが強固だった。

そこから近現代の思想として、個人の権利や社会の正しさに極端に降ったポリティカル・コレクトネスが乱用され始める。


現実と理念の齟齬

現実と理念には差があることがほとんどで、社会システムもその例外ではなかった。天賦人権は理念であり、社会システムはそれを現実的に機能させるための装置であった。それをあるべき姿に変えようというのは本来の姿への回帰という点で必然である。

しかし、社会の最小構成単位は人であり、人自体が減ればそれは崩壊するのは自明である。社会のために十分な人がいるというのは大前提であり、人は男女のつがいが子を産み育むこともまた自然の理であった。この自然の営みに理想を持ち込んだことで、今、社会は持続性の危機に立っている。1人ずつの男女がそれぞれの人権を主張し、子供を産むことを拒めば社会は崩れ、崩れればその人権そのものを保障する社会システムそのものが無くなるのである。つまり、子供を持たないという選択肢は、本来社会的には禁忌とされる猛毒なのである。

が、社会自体の理念はその猛毒すらも肯定している。これは本来は社会全体のバランスをみて社会の継続性に対して一定のコストを払うことをいとわない「成熟した市民」が多数派であることを前提としているためである。


ポリティカルコレクトネス

いわゆるポリコレは、この毒を含んだ理想を振り回している。社会が壊れようと理想を振りかざすさまは、ドン・キホーテでもあきれる近視的なものの見方と言わざるを得ない。そして毒を含んでいようと理想的ではあるため振りかざす人間は正義に酔うのである。

例えばジェンダー平等。これ自体は素晴らしく聞こえる、しかしその本質は性差も含めてバランスをとってきた既存社会の規範の破壊である。女性の雇用機会を均等にしたことで、リソースは男女にある程度平等に振り分けられた。その一方で女性の上昇婚思考は底上げされ、同世代の男性は収入的なアドバンテージを失い。女性が結婚しない自由も守られ、夫婦で子供を持たない自由にも大きな圧力はかからない。これでリスクをわざわざとる人間は保守的な人間だけだ。

私はリベラルだ、ジェンダー平等だとマントラを唱えるだけで、社会的役割から解放された気になり、社会の持続性を損なっていくのである。


同性婚について

同性婚を認めるか否か、は一見リベラルか否かの資金石になっています。が、先の社会を維持するに必要なリスクを背負ったものに対する保護制度が、異性婚による婚姻と考えると違う見え方になります。つがいとなり社会を支えうる状況になるから保護するのです。彼らは命をかけて社会を繋いでいます。

同性婚のカップルはそれは価値のあることですが、それは社会の維持に対して社会の参加者の養育に対して、等価と思える十分な功利を与えているのであればそのインセンティブがあってもいいだろうとは思います。

これについては僕は見出せませんので、別の方に譲ることにします。

破壊の後の世界を示せるか

現実に存在する世界を壊すのに破壊後の秩序を示さないことで混乱した事例は歴史上いくらでもある。最も顕著な事例はフランス革命であろう。そのフランス革命の歴史を紐解き、そらでその流血の流れを語れる日本人はいかほどいるかは知らないが、その流れた血の上の民主主義にたつ僕らが、なぜ同じことを繰り返すのか。

僕らはまだ血こそ流れていないものの、社会の規範を崩し、次世代への育成を怠り、社会的に継続不能なスキームに乗っていることを理解する必要がある。

もし、妥協点を示さないのであれば、未来の一端は個人の権利のために社会が崩壊する。未来のもう一端は婚姻統制による恋愛至上結婚主義の終焉である。あるいは治安の悪化を含めて許容して人口過密のこの国で移民を受け入れるのか、ぜひ別の解があるのであれば知りたいものだ。


まとまらないが一度ここで筆をおく












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