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分岐点である今、日本人として真に考えるべきこと 中島雷太

おはようございます!本日の投稿は、TCPアドベントカレンダーイベント対談企画、第一弾です!

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中島雷太 Raita Nakajima
英国登録建築家 | PLPアーキテクチャ 駐日代表

米国の建築学部卒業後、ロンドンにて英国建築家資格を取得。英国国内プロジェクトに始まり、ヨーロッパ、中東諸国において、主にオフィス、複合商業施設、ホテル、交通機関などの大規模プロジェクトを手掛けてきた雷太さん。日本に帰国後もGensler Tokyoを経て、独立およびPLPアーキテクチャ駐日代表として、国内外の様々な建築プロジェクトに携わる彼に、「ニューノーマルな働き方」というキーワードを引っ提げて、お話しさせてください、と突撃。いいよ、と快諾してくれた彼と話すやいなや、今回のキーワードをひっくり返す本質的な考えをぶつけてくれました。
https://en.nakajima-llc.com/http://www.plparchitecture.com/japan.html

今日はお時間ありがとうございます。「ニューノーマルな働き方」をテーマに、様々な方々から、今思うところを聞こう、というこの企画。今年は新型コロナウイルスという世界的な脅威から「ニューノーマル」というキーワードが頻出しました。

- 雷太さんのように海外経験も長く、現在も海外とつながりながらお仕事している方は、そもそもコロナ禍の前に、ニューノーマルという兆しを感じていたのでは、と思うのですがいかがでしょう。

コロナ禍という分岐点によって、社会的に従来のノーマルと違う”ニューノーマル”が出てくるぞという話になっているが、コロナ禍以前から、日本でも新しい働き方への関心はあり、しかし、海外のことだよね、と他人事であったり、部分的な認知や実施に留まっていたように感じる。コロナ禍がそれを少し加速させるきっかけになっただけで、「ニューノーマル」と定義する新しい日常が生まれた(もしくは必要になった)というわけではないと思う。感染する、しないというのは、コロナ禍によって初めて考慮すべき観点として発生したけど、テレワークやリモート会議なんてものは、昔からあったし、それを使う土壌やきっかけがこれまで日本にはなかった、ということじゃないかな。ただ、海外の方が進んでいる、とか、従来のやり方が間違いで、ニューノーマルが正しいとは一概に言えないと思う。

- 雷太さんが仕事をしている中でどのような変化を感じますか?

変化は確かに感じるが、良くない方向での変化を感じる。
今朝も実際にあったことだけど、別々の会社の人たちで、全く会ったことない人たちが、あるプロジェクトを一緒にやりましょうという企画があった。じゃあ、集まって会おう、打ち合わせしよう、という話になるんだが、デフォルトで「リモートでいいですね」という流れになる。
本来であれば、面識も関係構築もない人たちで新しい取組みをやるには、フィジカルに会って、人間関係を構築しながらやるべきだと思うけど、Zoomでやりましょう、と自然となってしまう。それでは、通り一辺倒の会話ばかりで盛り上がらない。何か新しいものを作り上げる雰囲気や議論に発展しにくいんだ。

リモートワークの加速によって、面識のない人や他の会社の人たちと会うのを避けるような変化が出てきているように感じる。それだと、(チームワークや連携が肝である)プロジェクトワークは上手くいかないだろう、新しい挑戦や発想はでてこないだろう、と肌で感じる。
そういうものこそオフィスに残して、プロジェクトワーク・チームワークはオフィスでやろう、ということを我々のようなワークプレイスコンサルタントは指摘していくべきかなと思う。

もう一つ感じる変化としては、人との関係をどう構築していくべきか、というのをみんなが改めて再考している、ということ。

ちょうど最近、お客さんと話していたのは、社会の二極化が進んでしまう、ということ。人間の中にも、言われたことを言われた通りに淡々とやる人と、自ら積極的に前に出て新しいことに挑戦する人がいる。どちらが良い・悪いという話ではなく、それは人それぞれの仕事観や性格に依るものでしょう。ただ、その二極化が極端になってきている。前者は、ただひたすら自宅に籠って、黙々と自分の仕事をこなす。後者は、こういう状況でも外に出て、人に会いに行き、交流を図ろうとする。

この現象が進んだ先には、言われたことを淡々とやるような、いわゆる真面目な人は、ともすれば、単純作業をだけをやらされるようになるのではないか。下手したら、日本人がやる必要がないから海外へ発注しよう、AIがやればいいんじゃないか、という話に進んでいく。一方で、Intellectual(理知的)というか、自発的に新しいことに挑戦したいタイプの人は、どんな状況でも、人と触れ合う、交流するような機会をどんどん作ろうとする。
日本の特色の一つとして、そういう色んなタイプの人たちが、組織という枠の中で、出すぎず、引っ込みすぎず、みんなで上手にやっていこうという格差を作らない文化があった。それが、個人主義や実力主義のの名のもとに、はっきり分かれていく。この流れが日本にとっていいことなのかは正直わからない。

- 日本の技術力や職人気質は世界で褒められるものの一つですが、技術者はどちらかというと真面目にコツコツと籠ってやるような人間のように思います。その人たちが、ビジネスの中に入っていけない、蔑ろにされる、という方向性は、おっしゃる通り、日本という国にとって良いものなのか疑問ですね。

その通り。そういう様々な人たちを認めて、出来るだけ格差が出ないようにしていたのが、これまでの日本のあり方。近年は、歪んだ形で個人主義が語られているのではないか、と思う。

日本人はいい意味でも悪い意味でも奥ゆかしい。自分はこういう人間なんです、と積極的に自己アピールする人は海外に比べてやっぱり少ない。待ちの人が絶対的に多い。そういう性質の中で、リモートワークをしていいよ、となれば、埋もれてしまう人は絶対に出てくる。あいつ、いたっけ?というような人が絶対に出てくるよね。

- 日本全体でリモートワークを推進していこうと舵取りされている中で、物理的に会い、同じ空間を共有することが、やはり必要なのでしょうか。

そう、居場所というのが大切。人間には居場所が必要だとおもう。
学生には学生の居場所があり、家族には家族の居場所がある。定年の人たちが、職場にも家庭にも居場所を見いだせず、行くところがなくパチンコに行く、なんて話もよく聞くように、居場所というのを人間は求めている。
そして、企業は人々の居場所を作ってあげていた。それは社会にとっても必要なことだった。

誰でも60歳でフルスピードで働けるわけではない。個人主義に振り切るということは、いつ何時、どんな歳でも、首を切られるかわからない恐怖感と戦わないといけない。

俺らみたいなフリーとしてやっている人間は、3ヶ月後仕事がないかもしれない、という覚悟を持った上で、組織に属さず、自分で仕事をしている。ただ、企業に勤めている人は、そういう覚悟のもと働いている人ばかりではないよね。

これまでそういう覚悟や考えを必要とされてこなかったおじさんを捕まえて、「今日からイノベーションを起こせ!」なんて言っても、そんなこと言われたことなかったのに、求められなかったのに、すぐに考え、実践できるわけはないんだ。

勘違いすべきでないのは、欧米の言葉をとって、イノベーションだなんだというが、あれも欧米の中でも上位数%がやっているだけで、大多数のホワイトカラーの人たちは、言われたことを面倒くさそうにやっているのが実態だよね。(笑)そんな実態の中で、欧米に追いつけ追い越せというのも違和感を感じるよ。

今、「ニューノーマル」と言われている働き方が、個人主義、実力主義への振り切りのように解釈されて、それに突き進んでいくことで、これまで日本社会が持っていたセーフティーネットや出来るだけ負け組を出さない、という文化が壊れていく。問題は、そんな教育を日本人は受けていない、というところにもある。

フィリピンに暮らしている友人が、ストリートで近所の子供達とバスケをしていたらしい。あっちの子供は4~5歳で”What do you do for living, sir?”(普段何してるの?)なんて、外国人の大人に向かって喋りかけてくるのに驚いていてね。フィリピンは諸外国へ出稼ぎに行く文化が染みついているし、子供であっても外国人に物怖じしないんだろうね。日本では子供たちが外国人に向かって「お前、普段何やってんだよ?」みたいなことはまず言わない。そういう意味でも、日本は、甘ったるいと言えば甘ったるい社会を作ってしまっている。

- 日本は、欧米に傾倒しすぎて、日本の文化や日本人の特性に合わないことをやったり、やらせるような風潮を感じます。結果的に何がしたいんだっけ?と、目的を見失っているように思う瞬間を良く感じますね。

そうだね。じゃあ、何が大事かって、国として、人間として、社会としてどうやって生き残っていくか。どうこの国で生き延びていくか、ということを考え、想像していくことが重要だと思う。

第二次世界大戦後、日本が存続できたことも奇跡的なことなんだ。イランやイラクを見ると、元は中東の超大国であったにも関わらず、今では国として存在しないような形になってしまっている。そういうことも、今後、日本で起こりえるとを想像しないといけない。

その中で、どのように生き残っていくか、そこまで想像力を膨らませて、自分を強くする、逞しくしていく、ということを一人一人が考えないといけない。それを、英語が話せます、グローバルな人間です、ということだけで、本当に立ち向かえるのか?と思うんだ。
本当は、修羅場をどれだけくぐり抜けているか、危機や逆境をどれだけ自分で乗り越えているか、というのがないと、生き残る逞しさはつかないんじゃないかな。

だから、あまりにもニューノーマルというような、グローバルな風潮や言葉に踊らされるのではなく、もっと深い次元で考えることがあると思う。今は一種のパニックだよね、新型ウイルスは数年経てば忘れられる存在になると思う。喉元過ぎれば熱さも忘れる、というけど、普通の社会に戻っていくんじゃないかな。そのとき、ニューノーマルという言葉は一過性のものになる。

一方で、文化や国の特性として数千年もかけて積み上げてきたものは、病気の一個くらいじゃ変わらないだろう。だって、第二次世界大戦でも日本は変われなかったんだ。

だからこそ、これから来るであろう「世界」における日本の立ち位置や危機を想像しないといけない。
日本人は、リーダーたちが思考停止になる傾向があると思う。「大丈夫だと思ってました」なんて言葉を会見でよく聞くが、縁起が悪いから考えたくない、というような感情的な判断をしてしまうんじゃないかな。リーダーがすべきことはリスクマネジメントであり、こんなことが起きたらどうしようか、こうなったらどうしようか、という一手二手先を考えながら、そうならないように準備しないといけない。

もし、ニューノーマルという今後の働き方を考えるのであれば、この先10年後、20年後どうなっていたいのか、というのを考えて、その上で、どういう危機があるのか、リスクがあるのか、を考えることがまともなことだと思う。

-私が雷太さんを尊敬する点として、「日本」のことを考えて、いつもお話をされることです。現在、SDGsの推進など、世界が一体化に向かっている。その中で、日本という国が消えていくのではないか、と危惧しています。

そう。やらされているんだよね。環境問題なんて今に始まった話ではない。サスティナビリティなんてもう何十年も話していること。環境に配慮した生き方なんて、日本人の方がよっぽど配慮した文化的素地がある。それなのに、わざわざ、胸元にSDGsなんてバッチをつける必要はなく、これまで先人が作ってくれた、いろいろな意味での自然との付き合い方を、きちんと勉強し、実践すればできるはずのことだと思うよ。

現代の日本人は、昔の日本人に比べて、贅沢な生活をしているのは事実。それを自分がないがままに、周りに踊らされてやっている人も多いんだろうね。

アメリカやヨーロッパに言われたから、流行っているから、というような欧米追従根性で活動を推進している人たちがいるけれど、同じトピックで、日本人はこれまでどういう風に向き合っていたんだろう、ということを、改めてちゃんと勉強していけば、日本の文化の中にそれに対する考え方が十分にあるはず。だからそんなことをわざわざ、諸外国から言われる必要はないはずなんだ。

最終的には、国を「国として」守りたいか、守りたくないか、そういう話に行き着くよね。

- 雷太さんはロンドンやアブダビなどいろいろな世界で働いてきたと思いますが、雷太さんにとって日本に対する思いはどういうものでしょう?

それは、親に対して抱く感情に似ているかな。海外で様々な人に会ってきた。スロバキア人、ドイツ人、アラブ人やレバノン人にも会ったけれど、それぞれ、どんなに戦争があって大変な思いをしても、どんなに国に問題があっても、国を嫌いだとはっきりいう人はなかなかいない。それは親に対する気持ちと同じようなものだと思う。もちろん嫌いだと言う人もいるけどね。
正直、自分も、日本には嫌いなところもたくさんあるし、こうするべきだろうなと思うことも多いし、ここが好きだな、と思うところはあまり見当たらない。でもそれは、親と一緒で、親に対して「ふざけんな!」と思うことも多々ある。ただ、そこですごくドライになって、腹立つから縁切るぞ、なんていうのは身も蓋もない。それは人間はやらない、それが人間性で、動物と違うところではないかと思うんだ。愛国心とまではいかないが、国に対する思いは、合理的に理解して、〇×つけて、50点だから嫌いとか、そういう話ではないよね。

- なるほど。憎らしいけど、愛さずにはいられない、みたいな感情でしょうか。普段仕事をしている中ではどうでしょう。

そうだね~、今の日本人には矛盾を感じることが多いよ。例えば、ビル開発などに携わってきた中で、「新しい働き方に向けて変わらないといけない」と課題感を持って、コンセプト検討会や勉強会はする。「ロンドンはすごいね〜」ってその場ではなるけれど、じゃあ、やりましょう、と言うと、一気に保守的になる。結果的に、何10フロアもあるうちの、1フロアの半分だけ、コワーキングスペースを作るような、中途半端なことになるよね。成果も出にくいし、なんだかつまんないなと思っちゃうよね。

- つまんないですね~。(笑)日本の都市計画において、余白があまりないですよね。とにかく稼げる場所を効率的に作る印象を感じます。

そうだね、例えば、海外では広場をドーンと大きく作って、自由に使ってください、というようなエリアを必ず作る。そこが使われていようが、閑散としていようが、誰もあまり気にしないんだ。でも、日本の施主にとっての成功は、常にそこが埋まっていて、使われていないと成功だと感じない。

- 日本人はそういう広場のような”自由に使ってください”というエリアは使いにくい、とよくお客さんに言われますが、実際どうなんでしょう。私はガンガン使っちゃうタイプなので共感しにくく・・・(笑)

それはあながち間違いじゃないと思うよ。海外の人たちは、そういう場所があれば、寝っ転がってみたり、タバコ吸ってみたり、勝手にやるよね。おそらく、本心から、人の目なんて気にしていない。

だけど日本人は、絶対に周りの目を気にしているんだ。新しくできたお洒落な公園なんかで、そこの芝生に座っているような人も、何となく、私イケてる、って思いながら座っているはずだよ。(笑)

見る見られる、周りを気にする、と言う意識は、日本人には潜在的にあるんじゃないかな。コンサートなんかでも「盛り上がれ!わーっと言え!」みたいなタイミングでもやっぱり周りを見てる。自分もこれだけ長く海外に住んできたけど、海外の人たちと全く同じようにはっちゃけるって言うのはできないよね。生まれた時から周りを見る意識が染み付いてるんじゃないかな。

- 確かに。海外の方は、コンサートでも自分勝手に踊りだしますが、そういう風景は日本ではあまり見ないですね。では、日本人にとっての自然な交流のあり方ってどんなものなんでしょう。

日本人は昔からそう言う場を意図的に作ってあげてたんだろうね。昔は、お祭りというのが無礼講の場だった。殿様が、ここはお前らはっちゃけていいぞ、という場所を作っていて、だから、祭りの場は本当にはっちゃける場で、何をやってもよかった。
ただお祭りの次の日には日常に戻り、質素な生活をする。日常の中に、はっちゃける場というのはなく、抑制されているものだった。ただ、部分部分でそういう機会を作り、今日はいいよ、というのが無礼講だった。それが日本人の文化であり性質なんだろうね。

- 克明に感じますね。例えば、有給消化しない問題とか、Gotoトラベルとか、お触れが出たらはっちゃけるけど、自分たちからなかなか動かない。

自信をもって自らが判断して、自らがやるっていうことを、日本人はものすごい不得意。周りを気にしちゃうからね。それはなかなか変わるものではないよ。

- 本当に一部なんでしょうね。私みたいな自分勝手な・・・(笑)

そうだね、それは一部の尖がった人たちで、それは尖がってるって言われちゃうからね。

- うん、打たれる杭のタイプですね、組織の中で。

そう、打たれるんだ。イノベーションだなんだと言っている企業さんに、そういう自由奔放な尖がった人が欲しいですか?って聞くと、それは要らないってことになる。だから、日本の文化や日本人の特性と、現代の欧米追従にはどうしても矛盾が発生するんだ。

数年前から流行っているイノベーションだとか、最近のニューノーマルというものを考えるのであれば、その言葉に踊らさるのではなく、長い歴史の中で培われてきた日本の文化や特性を勉強し、理解した上で、将来の世界とその中における日本というものを想像して、より深い次元で、自分たちがやるべきことを考える機会にしていくべきじゃないかな。

以上、雷太さんとTCP本田の対談の内容をお届けしました。序盤から、今回のテーマである「ニューノーマル」という言葉を斬っていただき、刺激的でありながら、多くの人が思わず納得してしまうお話だったのでは、と思います。歴史の積み重ねによる変わらない日本人らしさは、日々の中で、それぞれが感じるだろうし、それが国であり、文化なのだと思います。突発的に発生した新型ウイルスやニューノーマルというものへの対応は、ただ諸国を追従するのではなく、日本人として、日本として、先人を顧みながら、考えていけること、対応していけることがあり、それが、憎らしくも愛さずにはいられない「この国」を守る、一つの手立てになるのだろうな、と背筋がシャキっと伸びるお話を頂けました。
雷太さん、今回は突然のご依頼への快諾、本当にありがとうございました!

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