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「あの時、原爆投下は止められた」原爆開発科学者と被爆者の初対話 全内容

今年8月6日、NEWS23「綾瀬はるか 戦争を聞く」の特集で、2005年の特別番組『ヒロシマ~あの時、原爆投下は止められた』の「原爆開発科学者と被爆者の対話」が放送されました。撮影は2005年6月。これを機会に、対話の全内容とともに、取材秘話も加えて掲載します。

アグニュー博士への来日提案

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「広島に行ってみませんか。いや、あなたは、広島を見るべきだと私は思う」

気分を害することも覚悟して、インタビューの最後に提案した。驚いたように、博士は、妻の顔をのぞき込んだ。

その日、米カリフォルニア州の海岸沿いにある、博士の自宅をカメラクルーとともに訪ねていた。高台に立つ瀟洒な一軒家。広いテラスからは、海が一望でき、春先の心地よい風が吹いていた。
博士の名は、ハロルド・アグニューという。この時、85歳。第二次世界大戦中、米国の原爆開発の「マンハッタン計画」に参加した科学者である。大柄な体格だが、少々丸くなった背中が年齢を感じさせた。逆に小柄で華奢な印象の妻ビバリーさんと二人で暮らしていた。

取材の目的は、原爆投下に至る歴史的プロセスを、可能な限り、当事者の証言を集めて検証することだった。マンハッタン計画に参加した科学者の多くは、すでに死亡していた。彼は、2005年当時、健在で、取材に応えてくれた数少ない科学者の一人だった。博士が、ロスアラモス研究所に動員されたのは1943年、まだ21歳の若き時であった。

 「私は、広島の原爆投下に同行して、映像も撮影したんですよ」

少々自慢げに、博士は話した。彼は、科学調査班の一員として、エノラ・ゲイに続く観測機グレート・アーティストに搭乗していた。世界に唯一残る、人類初の原爆投下の映像を撮影していたのだ。ニュースやドキュメンタリーで繰り返し見る映像である。

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さらに、リビングの書棚から、取り出して見せてくれたのは、機長のティベッツ大佐ら、エノラ・ゲイの乗組員と共に映る写真だった。

ハロルド・アグニュー博士:
この写真は、「明日出発するぞ」と言われているところの写真だ。これが、パイロットのティベッツ、これが私。これは、アルヴェレス、スウェニー、私たちの飛行機のパイロット。これが、パーソンズ提督、爆弾を乗せた飛行機に乗っていた男だ。これが、私たちが乗ったグレート・アーティストだ。私はスウィーニーと一緒に広島まで飛んだのだ。

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(エノラ・ゲイ機長のティベッツ大佐と共に写る博士・右奥)

彼は、原爆を「開発」し、「投下」し、「撮影」した男、ということになる。しかも、戦後、博士は、ロスアラモス研究所に戻り、再び、核兵器開発に取り組む。1970年には、研究所の所長に就任。冷戦時代の核開発競争時代に、アメリカ政府・軍に、絶大な影響力を持っていた重要人物だった。また妻のビバリーさんは、原爆開発の第一人者、ロバート・オッペンハイマー博士の秘書だったという。アグニュー夫妻は、まさに、“核兵器の歴史”を背負った夫婦だった。

インタビューを終えた後、私は冒頭のように、広島訪問を提案した。

「行きたいと思うこともないし、行く必要もないね。ドレスデンやベルリンにも行ったことがない。興味がないよ」

にべもなく、博士は答えた。

だが、核の歴史を背負った博士だからこそ、戦後の広島を見て欲しい、そう強く思った私は、その場で説得を重ねた。広島の現在、平和記念資料館の内容など、彼が少しでも、来日に関心を持ちそうなことを、丁寧に、かなり熱く説明した。さらに、こんなアイディアも持ちかけた。

記者:
もしよかったら、被爆者の方とお会いになりませんか。
博士:
いいや。ドイツ人にも、イタリア人にも、そのほかの人たちにも会うつもりは無い。なぜ、会うのか。当時、彼らは敵だった。今は敵ではないし、それでいい。彼らは幸運にもまだ生きている。私も幸運にも生きている。それでいいではないか。なぜ、会う必要があるのか。

ただ、少し考えてみる、という言葉もあった。可能性に期待して、自宅を後にした。


博士が広島の上空で語ったこととは?

ハロルド・アグニュー博士:
今日みたいに澄みきった日だったよ。まったく今日みたいに。60年前も、空は、澄みきっていた。

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日本に帰国した後、交渉を重ねた結果、夫妻での来日が実現した。羽田から広島へと向かう機内の窓から、晴れ渡った空を眺めながら、博士は、1945年の朝と重ね合わせていた。

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広島型原爆を搭載したエノラ・ゲイ。その後を、博士が乗った観測機が追ったという。当時、まだ若かった博士にとって、戦地への任務は、これが初めてだった。

博士:
あの時は、こんなに高くは飛べなかった。約3万フィート、最高でもそれくらい。しかし、その高さを飛ぶのも危険だったんだよ。とても怖かった。

日本の空軍や陸軍が攻撃してくるのではないか、そうした恐怖心で怯えていたという。そして、原爆開発者としての不安。

博士:
原爆が爆発するかどうか、不安だった。全くわからなかった。唯一の、しかも初めてだったから。そして、爆発したあと、飛行機に乗っている私たちに、何が起きるのかも心配だった。

計り知れない原爆の威力によって、自分たちも、吹き飛ばされるのではないか、という不安だった。爆発の瞬間について訊ねた。

記者:
爆発したということが、実際にわかったのですか?

「爆発したんだよ。白い光が…」。彼は、噛みしめるように、回想した。

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博士:
小さな窓からでも、機内全体が白い光に包まれた。それから爆風の波に打たれた。さらに、もう一度、波に打たれた。考えれば、それは、爆風が地面に反射したからだろう。

二度、機体が大きく揺れたという。

博士:
爆発した瞬間、私は、ノートに「本当に爆発した」とだけ書いたのを覚えているよ。それから、家に無事帰れるだろうかと思った。それだけが心配だった。
記者:
キノコ雲を、今も覚えていますか?
博士:
ああ。ただ、爆発直後、私たちは、まだ計器を操作していたから、直後の雲を見ることはできなかった。反転して離れる時になって、初めて見ることができたんだよ。そのとき、私は、映像を撮影した。雲を見ることはできた。しかし、地上は何も見えなかった。全てが灰色のホコリに覆われていたんだ。


平和記念資料館の展示に博士は・・・

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博士:
あそこに、我々の測定器があるな。

突然、ある展示に向かって駆け寄った。爆発規模を観測するため、原爆とともに、彼が落とした無線測定装置だった。彼は、少し興奮気味に語る。

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博士:
これは、凄いねぇ、凄いねぇ、感無量だね。

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1階で上映されていた原爆投下のキノコ雲の映像に。

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博士:
あれは、私の映像だ、私が撮った映像だ。あの小さな窓から撮った、窓は、たったこれだけの大きさだったよ。

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投下直後に撮影された広島市内の巨大な写真を前に、自らが開発し、投下した原爆と通常の爆弾と比較して、こう話した。

「こっち(原爆)の方が、簡単だったんだ、たった1個だからね、毎日毎日空爆するより」

資料館の展示内容は、この後、原爆がもたらした惨劇へと移っていく・・・。博士の表情は、少しずつ変わっていった。

一枚の写真の前で、彼は立ち止まった。投下直後に御幸橋で撮影された写真。英語ガイドが説明する。

英語ガイド:
これを撮影した写真家は、この写真を撮るのが、とても悲しかったと話していました。彼らが苦しんでいたからです。

博士:
彼は、それを撮るのが、辛かったのだね・・・。

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被爆者の顔や背中の写真、後遺症の展示などを見るにつれ、博士の表情は、変わっていった。当時、原爆が市民に何をもたらしたのか、理解したように見えた。

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博士:
非常に有意義な展示だと思う。海外からの訪問客がもっといないのが残念だ。ロシアや中国にしても同じだ。指導者が来るべきだ。なぜなら、戦争するのは若い人ではない。指導者達が戦ってこいといって、自分達は家にいるのだ。しかし、こういった兵器ができたので、初めて指導者もリスクを負うようになった。だから、願わくは、もうバカなことはしないで欲しい。

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ところが、原爆で、多くの女性や子どもが犠牲になったことについて、博士は、こう話した。

博士:
戦時中は、必ず、罪なき民間人と言われるが、罪なき人なんていないんだよ。戦争に、何らかの貢献をしていたのだ。罪なきの人なんていない。

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戦時中は、全ての人間に罪があった。そう断言した博士は、その言葉の裏で、何を言いたかったのだろうか。

博士と2人の被爆者との対話 全内容

その翌日の朝、原爆ドームの、元安川を挟んで向かいの公園で、二人の被曝者が待っていた。一人は、中学1年のとき校庭で被爆した西野稔さん(当時73歳)。もう一人が、路面電車の運転をしていた17歳の時に、市内中心部で被爆した藤井照子さん(当時77歳)の二人である。博士の広島訪問について伝えたところ、二人の希望と博士の同意によって、対話が実現することとなった。

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原爆を開発、投下し、キノコ雲を撮影した科学者と、その下で惨劇を経験した被爆者が、60年という長き歳月を経て、初めて向き合った。

三人に笑顔はなかった。儀礼的に握手を終えた。
対話は静かに始まった…。博士の目は、しっかりと二人を見据えていた。その態度は、極めて紳士的だった。

まず、西野さんが、自らの被爆経験を説明した。

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西野さん:
私は、1945年8月6日、広島で、原爆投下で被爆しました。当時13歳です。中学校の一年生です。学校の校庭で、直接被爆して、顔と喉、胸、腕を火傷しました。爆発した瞬間は、気絶して、地面に倒れていました。起き上がってみると、あたりは、全部、建物が倒れていました。それで、逃げる途中には、たくさんの人が亡くなっていました。それは、話せば長いです。自分は帰って、三日目くらいに原爆の急性症で、放射能の急性症というんですかね、もう亡くなる寸前でした。でも奇跡的に治りました。

博士が、簡単に一言添えると、西野さんは、突然、この対話に臨む心情を口にした。

西野さん:
アグニューさんが今ね、60年経って、ここにおいでになることに、自分が冷静でいられるかどうか、さっきまでは、わかりませんでした。

「おお」。通訳を聞き終えると、博士は驚いたように、首を横に振った。

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西野さんが続ける。

西野さん:
自分で感情をコントロールする自信はありませんでした。でも、穏やかな姿を拝見して、今は落ち着いております。
博士:
おお、OK。

博士は苦笑しながら、安堵の表情を浮かべた。

次に、藤井さんが、路面電車の運転をしていたときの被爆体験を語った。

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藤井さん:
私は、電車を発進しようと思って、1ノッチ、4ノッチまであるんですけど、1ノッチを入れた瞬間に、西から青白い光がピカーっと私の前を横切って通ったんです。あたりを見回しましたら、もう家屋も、大きな柳の木も、街路路も倒れとるし、根こそぎ。何てひどい爆弾なのかと。

そして、あのキノコ雲。

藤井さん:
そのころ、上空には、キノコ雲がね、ブワーッと立っていて、それから雨が降っていましたね。パラパラと。まあ、とにかく、駅前は泣き叫ぶ人、半狂乱になって、ここは、今まで電車に並んでいた人も、どこかわからなくなってね、「ここはどこですか、どこですか」って私にしがみついて、おばさんが泣くんですよ。だけど、私はしっかりしなくてはと思って、「おばさん、しっかりしてください。ここは広島駅前ですよ」というのが精一杯で。しっかりしてください、といいながらも、私も泣いていました。

博士は、じっと聞いていた。惨劇の一端を理解できたのだろうか。藤井さんは、博士に、こんな質問を投げかけた。

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藤井さん:
キノコ雲の下で、市民が、本当に、地獄絵さながらに…、泣き叫び、右往左往している姿を想像されましたでしょうか?見られたでしょうか?

だが、博士は冷たい表情で応える。

博士:
いいえ。しかし、東京が空襲で焼けた写真は見ました。同じことですよ。東京のほうが、時間がかかっただけで、同じことです。誰かを非難したいのであれば、日本の軍隊を非難するべきです。

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この言葉に、西野さんが反応する。

西野さん:
被爆者にとっては、原爆というのは、今まで人類が作ったことのない、大量破壊虐殺兵器なんです。それは、アグニューさん自身、科学者として、ご存知だと思うんです。

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博士は反論する。

博士:
全て、ひどいことですよ。私は当時、ピッチャーで、キャッチャーは、ハワード・エリクソンという男でした。彼は、徴兵され、日本で戦死しました。全て、ひどいことです。私にとっては、銃弾で死のうと、爆薬で死のうと、原爆で死のうと、普通の銃弾で死のうと、死ぬときは死ぬんですよ。残酷なことなんです。あなた方は、ある意味、生き残ったから幸せです。生き残らなかった人も大勢いるんですから。私たちの側でも、あなた方の側でも。

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“あなた方は幸せだ”。惨劇の記憶を語った直後にも関わらず、博士のこうした言葉に、西野さんと藤井さんは、落胆の表情を浮かべた。西野さんは、自らが伝えたいことを語り始めた。

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西野さん:
私が申し上げたいのは、きのう、ご覧になられたかもわかりませんが、そこに、原爆慰霊碑というのがあります。そこに書いてある、碑に書いてある文字、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」と書いてあります。戦争はですね、人間の一番愚かな争いです。何千年も戦争が繰り返されております。その今までの戦争の中で、核兵器が一番人類にとって、地球にとって、大変な災いをもたらす兵器だということを知ったわけです。日本も、もちろん過ちを犯し、いろんな国が過ちを犯しながら戦争をしていますが、私たちは、核兵器がどんな兵器かということを、自分の身体で知っています。

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さらに、訴えかける。

西野さん:
核兵器を使うということは、地球の破壊につながります。だから、過ちを繰り返しませぬ、ということは、日本はもちろん、核兵器を使った国々も、お互い過ちは、もう二度と、こういう過ちはしたらいけないという気持ちで作った碑なんです。これは、日本だけでなく、世界中の方、過ちを犯したドイツ、戦勝国も、破れた国も全部含めて、人類に対して二度とこういうことをしないという約束のために作った碑なんです。ですから、核兵器はですね、お作りになった方が一番わかっています。放射能障害というのは、今でもまだ、被爆者を殺し続けているのです。私たちの子供、孫、その代まで、まだ核兵器の影響は続く可能性があります。これが全世界で使われてしまうと、人類は滅びてしまいます。それを私たちは訴えたいためにですね、こういう碑を作っています。もちろん、アメリカだけを責めているわけじゃないです。

身をもって体験した核兵器の罪を、博士に認めてほしいという思いだった。だが、博士は、認めるどころか、強く反論した。

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博士:
こういった恐ろしい武器の存在が、逆に大きな戦争を防止する可能性もあります。なぜなら、歴史上初めて戦争を勃発させる人々、つまりリーダー達が若者と同じリスクを負うからです。昔は、リーダー達が、彼らを戦争に送り出しましたが、もはやリーダー達も安全ではありません。もし再び、核戦争になれば、リーダー達は、戦地に赴く若者達と同じリスクを負うことになるのです。彼らが、そのことに気付けばよいのですが・・・。北朝鮮のリーダーが、このことを理解しているとは思えません。私はそのことを懸念しているし、あなた方も懸念すべきです。

これには、藤井さんが反発した。

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藤井さん:
日本が真珠湾攻撃したから、アメリカも仕返しをするという意味で、科学者として、どの程度の威力があるということをご存知でありながら、日本には、原爆を一発落として、本当に一瞬にして、街は焼き尽くされ、人々は木の葉のように焼かれるような状態であっても、そういうことをしなくても、日本には、もう兵器もないし、降伏する状態にあるのではないかということを、B29は何回も偵察に来ているのに、それがわからなかったのか、と思うし、原爆を落としたために早く終戦になって、穏やかな暮らしを今、皆がしている、と言う風に思っておられるということに、怒りを覚えます。

さらに、藤井さんは続ける。

藤井さん:
決して平穏に暮らしているんじゃないんです。全国で、二十何万の人が、後遺症で苦しみながら、本当に二世、三世と、これから、子供達、孫達がね、後遺症が出ないかと、毎日不安な思いで暮らしていると思うのに・・・。

米国の歴史学者の中には、日本の降伏のために、原爆の投下は必要なかった、と語る研究者も少なくない。藤井さんは、その論とともに、放射能がもたらす次世代への影響への不安も、あわせて訴えた。この後、藤井さんは、博士に質問を投げかけた。

藤井さん:
科学者として、あれほどの威力があるとは思わなかったとおっしゃるけど、あれほどの威力が、全てわからなかったとしても、本当にあれはやるべきことではなかったかということを、少しでもアメリカの指導者、軍隊の指導者の方に伝えられたのでしょうか。それとも伝えたいと思われなかったのでしょうか。

博士は、こう応えた。

博士:
私は、そういう立場にいませんでした。私の望みは、戦争の早期終結でした。天皇が賢明にも降伏しなければ、あと一週間ほどで、もっと多くの都市が、同じようなタイプの兵器によって破壊されたでしょう。ルメイ将軍と第20空軍は、引き続き、焼夷弾を使って、都市を壊滅し続けたでしょう。とにかく、ひどい状況によって、こういった悲劇が起こったのです。私は、こうしたことが繰り返されないことを望みます。人々が賢明であれば繰り返されないでしょう。しかし、私たちは核兵器と共に生きるほかありません。どうやって廃棄できるかわからないし、とてつもない数があります。盗まれる懸念だってあります。解決策があるとすれば、人々が、これらの兵器の、とてつもない威力に気付くことだと思います。

双方の訴えが、英語、日本語に訳されている間も、一層、緊張感が増す。博士の説明に、普段は穏やかな藤井さんが、終始、憤りの表情を浮かべていた。

藤井さんは、博士に訴える。

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藤井さん:
核は恐ろしいものだと言いながら、まだずっと、原子爆弾を落としたから早く終戦になったとか、どうしても、そういう気持ちが取り除かれていないように、私には受けとめられるんですが、昨日から平和資料館をご覧になっても、私たち二人の話を聞かれても、まだ本当に広島の悲惨さがわかってもらえてないんじゃないかと思うんです。本当に広島の惨状がわかってくだされば、世界へ核兵器の恐ろしさを訴えて、核廃絶を叫ばれることが本当に広島市民にとって本当にすごい、原子爆弾というのはすごいものであったということを伝えてくださるには、心の底から本当に大変なことだったんだね、亡くなった人は本当に申し訳ない、人々に申し訳ないという気持ちと、不安を毎日抱えながら生き延びている人たちに対しても、本当にすまなかったということを、この方が心の底から思っていただけない限り、やっぱり世界へ核兵器を使用してはいけない、平和を訴えることは伝わらないと思うんです。それを一言申し上げたいですね。

藤井さんの言葉を、通訳が「もし、申し訳ないとか、謝りたいとか…」と訳している途中に、言葉を遮り、こう語気を強めた。

博士:
思いません。私にとっては、真珠湾攻撃が決定打でした。私は真珠湾で、あまりにも多くの友人を亡くしました。

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この言葉で、三人の間の空気が張り詰めた。

博士は、語気を強めたまま、語る。

博士:
とにかく、起きたことを受け入れて、生きていかねばならないし、今後、政府が戦争をしないことを望むだけです。そして、どんな場合においても、核が使われないことを望みます。それは本当に無責任な行為ですから。

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西野さんが、三人の共通項を見つけ出した。

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西野さん:
アグニューさんが、ですね、世界に核兵器の、核戦争をしないことを知らせなきゃいけないということをおっしゃった、非常に同感します。

核兵器は使ってはならないー。
その一点で、三人の間に、ようやく共感が生まれた。ただ、西野さんが、それまで、胸にしまっていた思いを、最後に切り出すと、また、空気が一変した。

西野さん:
私は、原爆が落ちたときに亡くなった人のなかで、一番たくさんの亡くなった年代です。自分が死んだら、この方達に、その後の日本の中がどうなったか、どういう爆弾であったか、誰がこういう風にしたかと、報告する義務があります。アグニューさんがおっしゃったように、人類が使ってはいけない核兵器を使って、それに対して、謝らないということを伝えられないです。その方達は、安らかに眠ることができません。やっぱりアグニューさんから謝って頂きたいと思います。

通訳が終わるまで待てずに、博士は、西野さんに対し、鋭い視線を向けて、こう話した。

博士:
私は謝らない。彼が謝るべきだ。

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さらに、言葉を続けた。

私は謝らない、こんな言葉があるんだよ、Remember pearl harbor(真珠湾を忘れるな)。

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このとき、博士は、二人に向けて、右手の人差し指を立てた。
三人は沈黙した。それからしばらく、蝉の鳴き声だけが響いた。

藤井さんが、その沈黙を破る。

藤井さん:
今日はアグニューさんに来ていただいたので、膝を交えて、いろいろと、いままでの国民の悲惨さと、その時の状況を話せれば、もっと心の中に、本当に、自分が進んでやったことではないとは言え、本当に、日本の国民は辛い目にあっておられるんだな、ということは、心の底からわかってもらえたような気がしないので、これが平和につながるのかどうかとちょっと疑問に思うんですけれども…。今から核廃絶を運動するとおっしゃってくださるなら、世界へ訴えるとおっしゃってくださるなら、本当に、心の底から広島のことをもっと知っていただけるようにね、少しでも、世界の人たちに伝えていってくださることを、せめてもの、広島の人々にとっての償いではないかと思うんですけど・・・。

そう言い終えた後、藤井さんは、抑え込んでいた感情が我慢できなくなった。

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藤井さん:
もう少しわかっていただけるかと思ったのが、どうしても正当化なさるんで、それが残念でたまりません。

視線を地面に落とし、彼女は嗚咽した。
甲状腺障害の影響で、深い皺で刻まれた頬を、一筋の涙がつたった。 
間をおいて、西野さんが、対話をひきとった。

西野さん:
私たちは、アグニューさんに会うことを望んでいたわけです。私個人は、アメリカの方々を、非常に好きなんです。でも、戦争の話になると、やっぱり見方の違い、相違があります。そういうのを乗り越えて、未来志向にしたいというのが私の希望です。ですから、お帰りになられて、昨日と今日とですね、必ずどこかで、私たちの、二人の気持ちが入っていると思いますので、それを大事にしていただきたいと思います。

博士は、最後にこう応えた。

博士:
戦争は悲惨なもので、それが一瞬のうちに起きようと、長期にわたって行われようと悲惨なものです。今後も平和が保たれることを願うしかありません。

対話は終わった。

博士は、「OK、お元気で」といいながら、手を差し出した。誰にも笑顔はない。重い空気のなかで、三人は握手をして別れた。

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撮影を終えて、博士が語った意外な言葉

対話を終えた後も、博士は頑なだった。私は、彼に問いかけた。

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記者:
心の中で、何か変わったことはありますか?
博士:
今日かね?ないね。さっきも言ったように、“リメンバー・パールハーバー”なんだよ。もう刷り込まれているのだ。私自身は、肉体が傷ついたわけではないが、とても怖い思いをした。あれで、私の人生が変わった。あの後、友達がみんな殺され始めたんだよ。
記者: 
では、ほんの少しでも、心が揺れた、ということはないですか? 
博士:
いいや。

原爆を開発し、投下し、撮影した科学者が、60年後に、初めて広島の地を踏む―。しかも、平和記念資料館の訪問、被爆者との対話など、博士には、心苦しいと予想される取材内容にも、事前に躊躇を示さなかった。年老いた彼にとっての、広島訪問の意味を考えた時、もしかしたら、“贖罪の旅”という意識もあるのだろうかとも、頭の片隅をよぎったが、決して、そうではなかった。

博士の主張には、核兵器をめぐる、一つの論理が貫かれている。しかも、決して特殊なものではない。国際社会では、むしろ「主流」とも言える。ここでは、彼の発言の中から補足的に抜粋してみる。

「全く効果が違う。東京を400機の戦闘機で空爆する代わりに、一機で済むのだ。全く違う。だからこそ、あれ以来、大国間で戦争がなかったのだろう。人々がそのことに気付いたからだ」
=核抑止論
「人類にとって、全く新しいタイプの脅威だ。非常に危険。核兵器の指揮系統を管理し、不当な利用を防止することの重要性に気づいて欲しい」
=核廃絶よりも、核管理を優先させる論理
「もし再び核戦争になれば、リーダー達は戦地に赴く若者達と同じリスクを負うことになるのだ。彼らが、そのことに気づけばよいのだが・・・。北朝鮮のリーダーが、このことを理解しているとは思えない。私は、そのことを懸念しているし、日本人も懸念すべきだ」
=核抑止論の一部であり、北朝鮮、イランなどへの懸念

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博士と被爆者との対話―。その双方の間に横たわる深い〝溝〟は、米国など核保有国と広島・長崎との〝溝〟であり、また核をめぐる国際社会の姿を映し出している、と言える。博士は、被爆者の惨劇に心痛めていないはずはない。少なくとも、平和記念資料館での彼の表情から読み取れる。ただ、その惨状さえも、核抑止論を構成する根拠にされているのだ。

全ての取材を終えて、宿泊先のホテルに戻った時のこと。バスを降りた直後に、同行していた博士の妻が、独り言のように呟いた。

ビバリーさん: 
あなた、謝ればよかったのに・・・。

これを聞いた博士は、こう言った。

博士: 
いや、謝れないんだよ。

対話までの60年という時を重ねた思いは、深く、重い。核兵器に捧げてきた生涯を、85歳という人生の最終章で、ポーズでも否定することはできないだろう。しかし、もしアグニュー博士が、少しでも謝っていたとしたら・・・。それは、むしろ、多くの課題を覆い隠すことになってしまっただろう。当時、博士の広島取材を終えて、この対話を、3時間の番組の最後に位置付けようと決めていた。結論らしきものは示し得ない。なぜなら、この深い溝こそが、私たちに突き付けられている課題と考えたからだ。

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2020年 深まる溝…核なき世界は

それから15年。対話に臨んだ三人は他界されている。
だが、両者にあった〝溝〟は、今も残ったままだ。むしろ、深まっていると言っていい。米国の科学雑誌「原子力科学者会報」が発表する、核による人類滅亡までの「終末時計」は、2005年に、残り「7分」だったのが、今年1月、「100秒」とされた。米露などの核大国は、核の近代化を進めている。小型化によって、一層「使いやすい」核兵器を配備している。米国と「新冷戦」に入ったとされる中国も開発競争に加わる。国連の専門家パネルは、北朝鮮が核弾頭の小型化に成功した可能性を報告書で指摘。イランの核合意も崩壊の恐れが出ている。こうしたなかで、核抑止論は、一層強まっているように見える。
その一方で、「核なき世界」の実現に向けて、被爆者の声も、開発から使用まで包括的に禁じる核兵器禁止条約という形で実を結んだ。世界43ヵ国が批准し、発効まで、あと7ヵ国・地域に迫っている。
だが、日本政府は、条約に反対している。米国の「核の傘」に入るため、と説明される。確かに、日本をめぐる安全保障上の環境は厳しさを増しているだろう。抑止力の維持、強化こそ必要という見方もある。それでも、核兵器の脅威を、少しでも減らすために、国際社会における「唯一の戦争被爆国」の役割が問われているのではないか。15年前の対話に見えた〝溝〟に、今こそ日本が橋を架けなければならない。

【2005年に放送された動画はこちら】


萩原さん

ニューヨーク支局長 萩原豊

社会部、「報道特集」、「筑紫哲也NEWS23」、ロンドン支局長、社会部デスク、「NEWS23」編集長、外信部デスクなどを経て現職。アフリカなど海外40ヵ国以上を取材。