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「2つの祖国を生きて サハリンの記憶」(後編)ザ・フォーカスより

ロシアと日本の間の行き来が自由になってからも日本に帰国せず、サハリンに残ることを選んだ人もいます。

今月、サハリンから一時帰国した松崎節子さん、85歳。
付き添うのは、末娘のエンジャさん、51歳です。

エンジャさん)日本はいつも楽しいです

早くに両親を亡くした松崎さんもまた、生活のため、15歳で朝鮮人の男性と無理やり結婚させられたため、日本への引き揚げをあきらめざるをえませんでした。

松崎さん)(当時は)女が1人で生活することはできない。仕事もない。だんなさんと暮らすしかない。好きでもない。でもわしはいつか逃げていくんだ、逃げていくんだって

強制連行でサハリンに連れてこられた夫は、戦争が終わっても、韓国へ帰れない辛さを、松崎さんにぶつけました。

松崎さん)酒を飲むとおまえ日本人だと。わしが死んでしまえばいいんだなと思って。そばに海があって、そこへ泣きながら飛んでいきます。すぐに泣きながらぽんと(海に)入ればいいんだけど、ぽんと座ってしまうんだよ。苦労しました。話もできないね。

頼る人もなくたった1人、サハリンに残された松崎さん。わが子の存在すら、帰国の障害になるとまで思いつめていました。

松崎さん)長女が死んだとき、私踊りました。長女がいるからどこにも逃げられない。逃げることができないから。今度こそ日本に行くことができるって。

ある日、最後の引き揚げ船が出るという情報を聞いた松崎さんは、そっと家を抜け出します。しかし、間に合わず、船はすでに出航したあとでした。

松崎さん)波止場で泣いたり飛んだりしました。

日本へ帰る道を閉ざされ、絶望した松崎さんを支えたのは、一度は帰国の障害とまで思っていた子どもたちでした。

松崎さん)子どもがいるから、(帰国の)邪魔になるんだという気持ちはなくなりました。育てる気持ちしかなかった。それから日本に逃げていく気持ちは段々消えていった。
(Q:子どもの存在が大きかった?)A:そうですね。

サハリンに留まることを決めたのも、子どもの存在でした。

松崎さん)わしは親がなかった。子どもは母親がいないと。そういう頭があったから。子どもたちのこと。

今回、松崎さんがどうしても訪れたかった場所。それは・・・。

松崎さん)せっちゃん 良く来てくれたね~


サハリンと北海道。離れ離れになった、いとこたちとの再会です。向かった先は、松崎家の墓。

早くに両親を亡くした松崎さんの育ての親。そして戦後、サハリンに1人残された松崎さんをずっと探し続けてくれた、叔父さんが眠っています。

松崎さん)育ててくれてありがとうございました。おじさん(涙ぐむ)

戦争によって引き裂かれた家族が、またひとつになりました。

(Q:この傷は?)A:子どもたちが背が大きくなるのをいちいち測っているんだ。大きくなるのが楽しみでやったんだよね。

アパートの柱の傷は、日本で暮らした近藤さん一家の歴史です。


6人いる子どものうち、一番下の娘一家を連れ、サハリンから永住帰国した近藤さん。近藤さんの心の支えだった、美空ひばり。

近藤さん)これね、2番目の文句にさ、「また逢う」でしょ。兄弟に会いたいな、と思ったときにこれを聞いたものだから、忘れられないのさ。ちょうど文句がね。ちょうど私の気持ちにあれしていたから、忘れなかったのさ。


近藤さんもまた、戦争によって家族を引き裂かれたひとりです。

近藤さん)戦争がなければ、そこへ(サハリンへ)そのまま落ち着いていたでしょう。戦争のためにめちゃくちゃになってしまって。戦争を恨んだ。本当に戦争だけはしなきゃなんともなかったのに。戦争した人を恨んだこともあります。

戦後72年がたち、遠くなる、サハリンの記憶。しかし、彼女たちが語り継ぐ記憶は、家族が、国家と戦争によって引き裂かれていく現実を私たちに伝えています。

JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス 2017年10月20日放送 より