「加害と向き合う」~オランダ・戦後75年の補償~
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「加害と向き合う」~オランダ・戦後75年の補償~

“10万2000人”の名前

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読み上げられた10万2000人、一人一人の名前。ナチス・ドイツが運営していたオランダのベステルボルク通過収容所から移送され、その後、命を失ったユダヤ人ら犠牲者の名前だ。戦後75年となった2020年1月、ドイツ国境から35キロほどの距離にあるこの収容所跡地では、10万2000人の名前が24時間休むことなく、6日間にわたって読み上げられる追悼式典が行われた。その中には「アンネの日記」を書いたアンネ・フランクの名前もあった。

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会場は100席にも満たない小さな仮設のスペースだが、夜通し行われる読み上げの間は、常に緊張感に包まれていた。「未来を断ち切られた人たちの存在を忘れさせない」。名前の読み上げには、そんな切実な思いが込められている。

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この場所には犠牲者の数を示す10万2000個の石が設置され、遺族が添えた写真や花が手向けられていた。訪れた若いカップルは「二度とこのような悲劇を起こしてはならないと、心に銘じるためにここに来ました」と、真剣な面持ちで話してくれた。


ベステルボルク通過収容所

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1940年5月、ナチス・ドイツに占領されたオランダ。ベステルボルク通過収容所は、アウシュビッツなど大量虐殺できるガス室を備えた絶滅収容所に移送するための中継施設である。収容所でありながら劇場やスポーツ施設など多くの娯楽の場が提供されていた。ナチスの側からみれば、絶滅収容所への移送を円滑に進めるため、収容された人たちを動揺させない必要があったからである。束の間の笑顔を見せる被収容者の裏では、ナチス側は誰をどの絶滅収容所に送り込んで殺害するか、冷徹な準備を着々と進めていた。

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ベステルボルク通過収容所からの移送命令は、死刑宣告に等しい。1944年5月、アウシュビッツ強制収容所行きの列車に乗せられた9歳の少女の映像が残されていた。出発直前の車両のわずかに空いた部分から、悲痛な表情を見せている。収容所で髪を剃られたため、頭にはボロボロに破れた布を巻いていた。少女はアウシュビッツに到着した後、ガス室で殺害された。少女の生前の様子を記録する映像は、わずか7秒しか残されていない。私はこの映像に釘付けになり、何度も何度も見返した。移送される際、少女は自分の運命を予感していたのだろうか。悲しみに満ちた9歳の少女の眼差しは、戦争がもたらす残酷さをまざまざと映し出している。

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収容所跡地に併設している博物館には、当時の生活を物語る展示品が並べられている。犠牲者の日常を収めた数々の写真。ユダヤ人であることを示す、黄色い星形のマークが縫い付けられた作業着。ベステルボルクからアウシュビッツへの移送を示す標識も残されている。博物館の職員は壁一面に掲げられた写真を前に、熱を込めて語った。「ベステルボルクの犠牲者“10万2000人”は単なる『数』ではなく、それぞれの顔と背景をもった『一人一人の物語』です。犠牲者はみな、この場所で語り継がれる権利があるんです」


「死」の車両

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ユダヤ人の移送に使われた車両が現在も残されている。本来は家畜などの運搬に用いられるものだ。75年以上前に多くのユダヤ人を搬送したこの貨車に、私も実際に入った。車内は薄暗く、冷気がこもっていた。展示用に開いたドアから光が差し込んでいるため、私はまだ明るさを認識できるが、当時、車内はかなり暗かったはずだ。暗闇の中、隙間なく閉じ込められた人たちは、座るスペースなどなく、息をするのがやっと。立ったまま三日三晩移送され、その間、糞尿の臭いが充満していたという。この貨車に入ってその光景を想像するだけで、私は胸が締め付けられた。

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ベステルボルク通過収容所からアウシュビッツ強制収容所までは1000キロ以上。3日以上かけての移送は、想像を絶する旅だった。食べ物や水は一切、与えられず、用足しはバケツをたらい回しにして、すませたという。車内では怒鳴り声や子どもの泣き声が響き、命を落とす人もいた。

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アンネ・フランクが移送されたのは1944年9月3日。約1000人を乗せた家畜用列車で、ベステルボルク発アウシュビッツ行きの最終便だった。この頃には英米連合軍によるオランダの鉄道への空爆が始まり、鉄道輸送が不可能になりつつあったからである。アンネが搬送された列車に乗っていた生存者の証言によると、一車両に詰め込まれた人数は80人から85人。単純計算すると、約12両の貨車が蒸気機関車に牽かれて絶滅収容所へと向かった。バケツでしか用を足せないような状況は、15歳のアンネにとっては耐え難いことだっただろう。それが3日も続くのだ。こんな状況を耐え抜いても、辿り着く場所は絶滅収容所である。ユダヤ人であるという理由だけで、なぜ、ここまでの苦しみを受けなければならないのか。家畜用列車で移送された誰もがそう思ったことであろう。


最後のメッセージ

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絶滅収容所へと向かう「死」の列車から、最後のメッセージを綴った手紙を投じた人たちがいた。収容所では手紙を送ることはできないため、移送の際、列車の外に投じるしかなかったのである。ハガキに「送ってください」と書かれた赤い文字。家族の元へ届けてほしいという注意書きだ。そうした手紙の多くは、宛先に届くことはなかっただろう。だが、手紙を拾った心ある人の中には、危険を冒して送ってくれた人もいた。

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ユダヤ人女性のボラさん(当時22)は、その手紙が家族の元に届いた一人だ。「ベステルボルク。8月24日。移送されるので、この手紙を送ります。戦争が終わったら会えるといいな。たくさんの愛を。みんなによろしく」。しかし、このハガキが家族に届いた頃、ボラさんはアウシュビッツで殺害されていた。

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こうした「最後の手紙」を私は繰り返し読んだ。その一文一文が胸に迫ってくる。ベステルボルクを出発する直前、子どもに宛てた父親の手紙には、死への覚悟が綴られていた。
「こういう状況で書くのは残念だ。仕方ないが、受け入れなければならない。みんなに会いたい。でも、もうそれは無理だ。みんなにキスを。よろしく頼む」

恋人に宛てた男性の手紙には、待ち受ける困難を前に、自身を奮い立たせる思いが認められていた。
「私たちは列車を待っている。こうするしかない。勇気をもって出発するよ。ダーリン、私は戻ってくるよ。あなたの全てに感謝している。この手紙がちゃんと届くといいな。戦争が終わったら、会いましょう。キス、ハグ。あなたのマックスより」


ナチスに協力したオランダ鉄道

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ベステルボルク通過収容所の跡地にある列車のレールは、オランダ国定の慰霊碑になっている。約90メートルある線路の先端は切断され、空に向かって折り曲げられていた。「犠牲者が天国に行けるように」という願いとともに、「悲劇への道を断つ」という思いが込められているという。

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ユダヤ人らの移送に協力していたのは、国営のオランダ鉄道だった。オランダ鉄道は協力した見返りに、ナチスから多額の資金まで受け取っている。しかし、戦後、長らくその責任を認めようとはしなかった。

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ベステルボルク通過収容所に5歳の時に収容されていたアイザック・フロストさん(82)は、数少ない生存者の1人だ。両親、姉、兄弟とともに移送され、母親を移送中に、弟を移送先で亡くした。「私たちはこの収容所から、ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所に向かいました。母は列車の中で亡くなりました。ここから移送された人のほとんどが戻ることはありませんでした」。フロストさんはナチスに加担したオランダ鉄道を許すことができないでいる。


国営企業に一人立ち向かった男

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国営のオランダ鉄道に、たった一人で立ち向かったのがサロ・ムラーさん(84)だ。当時、アムステルダムに住んでいたユダヤ人夫妻の一人息子として育ったムラーさんが、両親と離ればなれになったのは6歳の時だった。「その日、母は私を幼稚園まで送り届け、ぎゅっと抱きしめながら『また、今夜ね。良い子でいてね』と声をかけてくれました。それは母が私にかけてくれた最後の言葉でした。『良い子でいてね』という母との最後の約束を私は忘れることはありませんでした」

ムラーさんの両親はオランダ鉄道でベステルボルク通過収容所に移送された後、最後はアウシュビッツ強制収容所のガス室で殺害された。

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「私は昼も夜も泣き、怯え、『お父さんとお母さんに会いたい』と叫びました」。そう話すムラーさんは、時折、目を潤ませていた。ムラーさんは戦後までの3年間、叔父夫婦とともにナチスから隠れて生活し、時には床の下で息を潜めながらなんとか生き延びることができた。

ムラーさんはその後、オランダの名門サッカーチーム・アヤックスの理学療法士として名声を得て、幸せな家庭も築いたが、不条理なかたちで命を奪われた両親のことを忘れたことはない。かつて両親と暮らしていた自宅の前には、2人の名前や死亡した収容所の場所が刻まれた躓きの石を両親の「生きた証」として設置した。

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「遅すぎることはなかった」

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「私の心の中で両親が『やりなさい』と言ったんです。私は両親の苦しみに対する復習を誓いました」。サロ・ムラーさんは、ナチスに協力をしながら責任を認めないオランダ鉄道に対し、賠償金の支払いを求めた。そして、2005年、オランダ鉄道は初めて責任を認めて謝罪。2019年には、生存者や遺族に対し、一人あたり最大で180万円の賠償金を支払うことを決めた。戦後75年の歳月を経て、賠償が認められたのだ。

「『良い子でいてね』という母の最後の言葉は、私にとって重要なものでした。私はお金ではなく、謝罪がほしかったのです。まだ、300人の生存者がいるので、遅い謝罪ですが、遅すぎることはありませんでした」

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たった一人で国営企業に立ち向かい、賠償を認めさせたムラーさんは、取材中には厳しい表情を見せ、オランダ鉄道への怒りを露わにする場面もあった。しかし、取材が終わると、相好を崩し、ユーモア溢れる話までしてくれた。そんなムラーさんの傍らには、いつも微笑み、寄り添う妻のコニーさん存在がある。実はコニーさんも両親をナチスのソビボル強制収容所で亡くしていた。二人はともに「虐殺されたユダヤ人の遺児」だったのである。

ムラーさんは、書斎に飾ってある新婚時代の夫婦の写真をはじめ、子どもや孫の写真を嬉しそうに私に見せてくれた。ともに過酷な幼少期を過ごしたムラー夫妻だが、二人のにこやかな表情は戦後、築き上げた家族が幸せだったことをはっきりと物語っている。これまで厳しい取材が続いていただけに、私の心にも少しだけ晴れ間がのぞいたような気がした。


戦後75年の初謝罪

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それは歴史的なスピーチだった。2020年1月、オランダの首都アムステルダムで行われたホロコーストの犠牲者を追悼する式典。オランダのマルク・ルッテ首相が、次のようにスピーチした。「私たちの国に生存者が残っているうちに、オランダ政府を代表して当時の政府の行為について謝罪します」。ルッテ首相は当時のオランダ政府がナチスからユダヤ人を守らなかったことを認めた上で、オランダ政府として初めて謝罪したのである。

ナチスに占領された立場でもあるオランダは戦後、この「負の歴史」を公式に認めることができなかった。だが、75年の歳月を経て、「加害の歴史」とも向き合うことができたのだ。

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この追悼式典を取材していた私は、歴史的な謝罪を聞いていた一人のユダヤ人の男性から目を離さずにいた。アウシュビッツ強制収容所での数少ない生存者の一人、エルンスト・ベルダンさん(93)だ。ベルダンさんはアウシュビッツで父と姉を失っている。自身もガス室に向かう列に並ばされたが、ナチス兵士の目を盗んで強制労働者が並ぶ列に紛れ込み、辛うじて生き残ることができた。「75年が経過しても、オランダ政府が正式に謝罪してくれたことは良かった」。ベルダンさんは、言葉少なに話してくれた。


次世代への祈り

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「歴史を繰り返さないためには、若者に知ってもらう必要がある」。ベルダンさんはその使命感から、高校や大学などで定期的に自身の体験を語ってきた。犠牲者10万2000人の名前を読み上げるベステルボルク通過収容所跡地での追悼式典にも、欠かさず出席している。そんな父親の背中を見て、息子と娘も参加するようになった。

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息子はベルダンさんと共に、追悼式典に参加できたたことを誇りに思っているという。「93歳になる父がまだここにきて、名前を読み上げることができる。これはとても素晴らしいことです」。娘も特別な思いをもって、参加していると話した。「名前を読み上げるとき、犠牲者たちはまさにこの場所に戻って甦るんです。だから何度も名前を読み続けなければなりません」。父の思いを二人の子どもが次の世代につなごうとしている。

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「同じ過ちを繰り返さぬために」。ベステルボルク通過収容所の近隣にあるオランダのクーフォルデ市長とドイツのエムリヒハイム市長がともに追悼式典に出席し、犠牲者の名前を読みあげた。

エムリヒハイム市長は10万2000個の石の前に花を供えた。
「反省しなければならないし、反省しています。私たちは過去の過ちを記憶し、継承しなければなりません」
隣に並んだクーフォルデ市長も言葉を継いだ。
「互いに理解できない時に起きる悲劇を、私たちは記憶し続けていく必要があります」。

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犠牲者の思いを語り続けることは、容易いことではない。加害と向き合い続けることは、さらに難しいことかもしれない。それでも戦争を起こさない努力を続けない限りは、悲劇が繰り返されることを、歴史が証明している。

失われた10万2000人の命。そこには一人一人の名前とともに、生きた証が確かにあった。「被害者の祈り」と「加害者の反省」に、終わりはない。

JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス(2020年6月21日放送)
「遅すぎることはなかった ~オランダ・戦後75年の補償~」 はこちら


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ロンドン支局 西村匡史記者

報道局社会部で警視庁、横浜支局、検察庁、裁判所、司法キャップを担当。「NEWS23」「報道特集」などで、数々のドキュメンタリー作品を手がける。事件、事故、震災、戦争、自死などの被害者取材、死刑囚との面会などの加害者取材を続け、入社以来、一貫して「いのち」を追い続けている。著書に「悲しみを抱きしめて 御巣鷹・日航機墜落事故の30年」(講談社)。
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