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中曽根康弘閣下を顕彰する~マスコミは「教育改革の先駆け」を讃えよ!

文部科学省が国立大学に故中曽根康弘閣下に弔意を示すよう求めていたことが取り沙汰されている。

全くもって嘆かわしい。メディア記者諸賢は中曽根閣下の偉業を不勉強とみえる。国民を扇動するマスコミに代わって、卑小な一物書きではあるが、御方の大業をここに記すこととする。

教育改革の先鞭

中曽根康弘閣下は改革の人である。その大望は首相となる前から自民党の内外で発信され、就任された時には行政改革と「戦後政治の総決算」をひっさげ、意気高らかに職務に励まれた。

しかし、時の状況は自民党において穏やかなものではなかった。米国の陰謀ロッキード事件が自民党を強襲していたからである。

首相就任から1年後の1983年12月、教育改革の大望を胸に秘めた中曽根閣下は総選挙において敗北の憂き目に遭う。
同じ年の10月に逮捕・起訴されていた田中角栄元首相が懲役4年の実刑判決を受けたことから解散し、打って出たものの、この選挙で衆議院での単独過半数という優位を失ってしまったのだ。
選挙前の打ち合わせ通りにいかにも言うことが聞かせられそうな弱小政党・新自由クラブとの連立政権を樹立した閣下であったが、しかし内閣の思うとおりに法案を通すには議席が足らぬ。野党との協力関係を模索しながらの国会運営を余儀なくされた。

しかし、閣下の大望を阻むほどのことではない。国民の関心はもっぱら減税などの経済政策で特に教育に期待されていたわけでもなかったが、特に失敗とも見なされない教育改革はすぐにでも着手する必要があった。「行政改革の成果を問う行革解散」であった総選挙を終え、後の仕事として位置づけられていたのはこれ一つであったし、閣下には自身の政治生命を賭けた「改革工程表」が見えていた。

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組閣後、年明けの1984年1月には文部大臣の諮問機関である中央教育審議会を立ち上げるよう調整を図るも、人選が難航していることを理由に当時の森喜朗文部大臣から延期を願われる。広い心の持ち主であった閣下は寛恕されたが、しかしスピード感は失われてはならぬと立ち上げ計画を進めたのが「臨時教育審議会」であった。

臨時教育審議会の辛酸

これに遡ること3年前、鈴木善幸内閣で立ち上がった第2次臨時行政調査会は行政改革という重大改革を実施するための権威付けとして大きな役割を果たし、この時に以下の3つが提言された。

 ①1984年度までに赤字国債ゼロ
 ②官業(国鉄、日本電信電話公社、日本専売公社)の民営化
 ③3K赤字(コメ、国鉄、健康保険)の解消

そしてこれらを行政改革という形で結実させたことが第1次中曽根内閣の成果であった。

そこで教育改革も「臨調方式」の審議会による諮問を受けるべきだ。――これは中曽根康弘閣下が温めてきた案だが、その支持者は他にもいた。野党の中道政党からもそう提案があったのだ。
当時の国会において自民党と社会党の間で政策によってあっちこっちにひっついては離れを繰り返していた公明党と民社党が、党首会談の折に「臨調方式」を打診している。

閣下にとってこれは好機であった。
当時、教育改革を行うためには2つの勢力と対峙する必要があった。1つは文部省役人とその支援勢力である文部官僚出身議員(いわゆる文教族議員)であり、もう1つは野党・社会党と結託する日教組である。後者はともかくとして、前者は獅子身中の虫にならんという連中であったから、「国会運営のために」といえば文部省の力を削ぎつつ閣下の大望を果たせる見込みがあった。

ところが――である。後に中曽根閣下が述懐するように、臨時教育審議会(臨教審)は失敗に終わった。閣下の思う教育の在り方は臨教審の中でも意見が割れ、次いで文部省内の諮問機関である先述の中教審で吟味されたものが施策となっていったのである。
閣下の目指した教育、それは臨教審の第2次答申に現れている。

 ①ひろい心、すこやかな体、ゆたかな創造力、
 ②自由・自律と公共の精神
 ③世界の中の日本人の育成

これら先駆的な21世紀のための教育目標は、教育関連法令の監督官庁である文部省の抵抗によって弱められてしまったのである。それどころか、文部省内の省内改革派が御題目として言いように使っていたというのだから、中曽根閣下の心中は乱れに乱れたにちがいない。

この改革によってゆとり教育などと呼ばれるものが生まれてしまったと中曽根閣下を指弾する者もいる。そんなわけはない。悪いのは省内改革に利用した文部官僚なのだ。教育自由化で支持母体の拡大を謀った文教族議員なのだ。閣下の純たる改革すべし、時代に合わせたものに改革すべしという精神は彼らに利用されてしまった。

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90年代に入ると社会党等のようなリベラル政党が政権与党になったことも原因の1つだ。日教組が息を吹き返すこととなってしまったのは閣下においても残念なことであったに違いない。在任中に決着をつけることができたとばかり思っていたのに。

閣下の志を継いだのは結局、愛国の士、安倍晋三クンであった。そして彼の下に結集した仲間たちが官僚も文教族も、そして日教組をも打ち破り、世界に冠たる日本の愛国教育が復活したのだ。
教員の多忙化も教育格差もそのショック療養的な副作用にすぎない。家庭の力が強まれば自ずと教育の問題はなくなっていく。中曽根閣下は病床にありながらきっとそう思われたに違いない。

安倍政権の下で大望成る

閣下の改革が遂に成就されることとなったのは後年のことだ。それどころか、安倍晋三クンは、閣下でさえ叶わなかった教育基本法の改正にも踏み込んだ。誠にあっぱれ、これで日本の教育は安泰だ。特に根拠はないが産業界の求める優秀な人材を多数輩出することは間違いない。

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そしてその後継者たる菅義偉クンの政権で中曽根康弘閣下を国葬とするのはもはや当然のことである。
しかし、ここで期待することがある。

「新自由主義の旗手」、「民営化のパイオニア」である閣下の業績を顕彰するためにも、国葬は自由入札による民営化がふさわしいのではないか。

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出棺に際しては閣下の盟友・渡辺恒雄と東京オリンピックに奮起する森喜朗クンが運び手には最適だ。御老公らが壮健な出棺をすれば日本国民も滂沱の涙で現政権を讃えるに違いない。

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パンケーキでメディアを籠絡する菅義偉クンの手腕に期待するものである。

参考文献

『新自由主義的教育改革の政治過程とその分析視角』森裕城
『学校を巡る教育環境の変化と教師の専門性について』西田忠男
『1984年1月の臨教審設置の経緯に至る再検討』大島隆太郎、高木加奈絵
『新自由主義=市場化の進行と教職の変容』加野芳正
『角栄失脚 歪められた真実』徳本栄一郎

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