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テレワークゆり物語 (105) 大好きな「母」に自分もなりたい

私は母が大好きだった。

もちろん今も大好きだが、こどもの頃は、ハンパぱ無いほど好きだった。

母さえいれば、はじめての場所だろうが、何だろうが、どこでも寝れた。
小学校に通い始めた頃、学校にいる間に母がいなくなったらと不安で、毎日母から「10円玉」を1枚もらって学校に行った。いざというときに電話をかけるためだが、気持ちの中では「もし、ママに何かあったら、これを大切にしよう」と考えていた。
中学生や高校生になっても、家にいるときは母にベッタリだった。
ひとり娘の私は、母の愛情をひとり占めできる幸せの中で育ててもらった。

そんな私自身が母になることがわかったのは、1991年の5月。仙台で暮らしていた頃だ。
ダンナが仙台転勤になっても、仕事を続けたいという私を、シャープが販売会社の仙台支店に転勤させてくれたのだ。

しかし、はじめての妊娠は実感がわかず、エコー写真をみても、本当にこのお腹の中に赤ちゃんがいるのかなぁ、と不思議に思う毎日だった。

妊娠4か月ぐらいだったろうか。ダンナと当時人気の映画『ターミネーター2』を見に行った。シュワちゃんの凄さに興奮したのか(笑)、お腹が痛くなり、病院に行くと「切迫流産」と言われ、そのまま入院した。

そのとき、はじめて、子どもを産むことの大変さと、お腹の赤ちゃんの大切さを実感した。
そして、はじめて、

「この子を無事産み育てることが、今の自分にって一番大切なこと。そのためなら、大好きな会社を辞めてもいい」

と、思った。

幸い、そのときの切迫流産は乗り切り、無事退院することができた。
そして、その後の「切迫早産」での入院も乗り越え、1992年2月15日、無事、長女を出産することができた。

無事赤ちゃんが生まれた安心感とともに、

私にとっての母のような存在に、自分がなれる!

という喜びでいっぱいになった。

私が母に愛情たっぷりに育てられたように、この子を育てよう。

その思いが、私の「母」としての第一歩だった。

30年経った2022年 5月8日 母の日、そんなことを思い出した。
母は、今年、90歳になる。

お母さん、ありがとう。


※冒頭の写真は、50年前の「母が大好きな私」。
(母へ。タンクトップ姿の写真を出してゴメン)


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