テレワークゆり物語 (96)ライターになりたくて、一世一代の嘘
嘘だけはついちゃダメ。いつか、自分がつらくなるから。
子どもたちには、そう教えてきた。
でも、そんな偉そうな私でも、確信犯で嘘をついたことがある。
今、嘘をつかないと、ここまで頑張ってきたことが、水の泡になる。
1991年10月。夫の転勤と出産のため、大好きだったシャープを退職。でも、仕事をしたいという思いが強く、パソコンのフリーライターを目指して、営業活動を始めた。
しかし、はじめての赤ちゃんがお腹の中にいる、妊娠9か月。ライター経験も無く、地方に住む妊婦に、仕事を発注する人はいるはずがない。
もんもんとする日々、当時パソコン業界でバリバリ活躍していた女性経営者が、私の状況を知って、技術評論社の『パソコン倶楽部』の編集長を紹介してくれた。
『パソコン倶楽部』は当時として珍しい、パソコン初心者向けの雑誌。立ち上げに、若い女性編集長が抜擢されたところだった。普通なら絶対会えない編集長。喜びいさんで、電話をする。私の熱意が通じたのか。
「連載の企画を提案してみてください」
という、ありがたい言葉をいただいた。
その日からの私は、すごかった。毎日のごとく、連載企画を考え、ファックスを送り続けたのだ。そして、ついに・・・。
「今回の企画いいですね。もう少し具体的な企画にしてもらえますか?」
やったー!! もしかしたら、仕事をもらえるかもしれない。私の心はおどった。さっそく、企画書を充実させ、ファックスを送る。
「連載について、編集部で検討しますね。また、連絡します」
これは、一世一代のチャンスだ。
やれるだけはやった。あとは、電話を待つだけ。しばらくは、外出しないで、電話をまとう。(当時は携帯電話など無かったのだ)
・・・と、おとなしくしていればよかったのだが、1日だけ友人の披露宴に呼ばれていて外出した。そして、お調子者の私は、大きなお腹をかかえながらも、「余興」で踊ってしまったのだ。
その帰り道、お腹が張り始めた。念のため、産婦人科にいくと、
「切迫早産の可能性があります。このまま入院してください。」
ライターとしての一歩を踏み出せるかどうか、まさに人生の岐路に、なんということだろう。
入院してしまっては、編集長が電話をくれても、日中は誰も出ない。いや、たとえ連絡がとれたとしても、入院したというだけで、連載の話なんてふっとぶに違いない。どうする?
オロオロする私は、そのまま病室に案内される。
すると、ベッド横の壁に、なんと固定電話がくっついているではないか!
個人病院なので、全室個室。家族に連絡をとるための電話が用意されていたのだ。(繰り返しになるが、当時は携帯電話は無い)
翌日、編集長に電話をして、一世一代の嘘をついた。
「親の家行くので、連絡先の電話番号が変わります。何かありましたら、こちらの番号にご連絡ください。」
産婦人科の病室の電話番号を伝えた。入院なんてひとことも言わない。とにかく、このチャンスを逃したくない。
そして、待つこと2日。ベッドの横の電話がなった。
「田澤さん、連載、お願いすることになりました!」
やったー!!
まさに、ベッドの上で、飛び上がって喜んだ。
あの時のうれしさは、一生忘れられない。
すぐに第一回の原稿を書き始め、切迫早産が落ち着いて退院し、連載の第一回の原稿を送ったのが、年が明けた1月。
そして、2月には「出産のための入院」。退院した直後に、第二回めの原稿を納品した。
なんとも、綱渡りのような、ライターデビューだった。
しかし、あのとき、突然「連絡方法」がとだえていたら、また、正直に「入院」を伝えていたら、ライターになれる大きなチャンスを逃し、それに続く、今の私は無かったと思う。
嘘はいけない。でも、ここだ! と思った一世一代の嘘が、人生を変えるかもしれない。
そして、一度も会っていない、経験もない、妊婦の私に「連載」という仕事をくれた女性編集長は、その後も、パソコン業界で活躍された。
Facebookで定年を迎えられたという投稿を読み、この記事を書こうと決めた。
30年前、嘘をついてごめんなさい。でも、心から感謝しています。
#冒頭の写真は、押し入れの奥から探し出した「パソコン倶楽部」。当初のものではないが、自分の記事を見つけた。