性別が人称のふりをしやがる

まったく変な話だ。
かつての恋について、ノートを書こうと思った。
書こうとして、手が止まる。わたしの恋したその人を簡潔に示そうとすると、なぜだろう性別がついてくるのだ。「彼」とか「Aくん」とか。

おかしいだろう。だってそこに性別を入れる必要はないのだ。
必要のない情報は削りたいから、なるべくシンプルに書きたい。のに、短めの人称を使おうとすればするほど、勝手にくっついてくる。
しかも、恋愛の相手の性別を伏せたら伏せたで、今度はヘテロセクシャル、シスジェンダー以外の人のように見えると思う。そう思われたって不都合はないが、わたしが発したかったメッセージではない内容を、空白が勝手に語り出すのははた迷惑。

わたしは話題が何についてであっても、そこで言いたいことに関係ないのなら、セクシャリティを言葉にして示したくない。
言葉にしてしまうと、どうしても意識のリソースがそこに割かれてしまうからだ。大分類の性よりも個体の話をしたいときに、それはいらない。


恋愛の相手の性別を明示したくない理由は他にもある。一つには、言葉がまだわたしたちに追いついていないから。性別を明示する恋愛関係の言葉を使うと、特定の文脈に絡めとられてしまう。ヘテロセクシャル、シスジェンダーの中のごく一部のあり方を前提としている文脈に囚われてしまう。

当たり前だけど、ヘテロではない人々のあり方が実に多様なように、ヘテロのあり方だって多様なはずだ。スペクトラム的に、つながりながらみんな違っているはずだ。

わたしは自分のことを、人々を便宜的に大きく分類してみたときに、ヘテロセクシャル、シスジェンダーと概括される一角に位置する1人であると自覚している。ヘテロセクシャルの中ではバイセクシャルに接近したあたりにいるものだとは思うが、それでもとにかく数でいえばマジョリティであり、マジョリティであるがゆえの特権をむさぼりつつ、世間に没入して生きている者だ。しかし他の誰もがそうであるように、他の誰とも違う1人だと思っている。


そこに「彼氏」とかいう言葉を使ってしまうと、変になる。周りから、特定の文脈の中にあてはめて見られるというだけではない。
自分自身も、ヘテロの中の多様な1人であったはずの私を見失ってしまうのだ。それほどに名前というものは強い。だから私は、呼び方に妥協できない。

恋人とかパートナーいう言い方もあるわけだけど、そしておしゃれな人は最近はみんな恋人って呼んでる気もするわけだけども、でもなんか少し妥協した感じもあるし……
結局、誰かに話すためにその人のことを不本意な名で名指さなくてはならないくらいなら、誰にも言わないほうがましだ。


だいたい、ヘテロではない人にクローズドであるよう迫るのは論外に非道なことだが(アウティングも無論)、ヘテロの人間ならばオープンであって平気なはず、というのも変なこと。
まして、合コンなんかの「Sなの?Mなの?」とかいうのは何なのだ。そんなプライベートな部分を全然仲良くもない人に晒すだなんて露出狂か。
(当事者ではないので気が引けるが…同性愛の人々が自己紹介として「タチです」とか名乗るのも、不思議に思ってはいたが、ただ、出会いの場において必要な情報だというのはわかる。問題はヘテロの人間が「どっちが女役?」とか言っている場面。当事者ではないがとても腹が立つ。)

そして、そこから延長線を引けば、わたしが「ある男性と恋しています」というのも、同じくらい露出狂の気分である。ときどきヘテロワールドに染まった人ぶってそういう話を人に振ったりとかもしたが、異様に疲れた。


そんな次第で、わたしは、自分が心を寄せる人の性別を、特定したくない。それなのに、日本語では、なぜだが性別が人称づらする。


人称なしに、人間のことを語るのはむずかしい。それは、特に知らない人相手に話すときそうなる。
だから、わたしとまったく縁もゆかりもない人を読者に想定してノートを書こうとしたとき、わたしは恋愛の相手の性別を明かそうとする言葉遣いの襲撃を受けた。新聞記事とかだって、犯人はなぜだかみんな男か女だ。別に性別を出す必要のないような種類の犯罪や報道だったとしてもそう。

人を人と呼ばず、カテゴリー(それも最悪の2分類)で呼ぶ日本語の残酷さに身震いがする。シスジェンダーにとってもいやな仕打ちだが、トランスジェンダーの人に対してはなんてむごいことだろう。
それが、知らない人相手、つまり初対面の人との言葉のやり取りでより顕著になるのだから、ましてひどい。そんなふうに自分のことを非人間的に規定する、それが、かけがえのない誰かとの最初の出会いになってしまうだなんて。

(念のため付言するけれども、同時代の別の場所、別の文化圏の言葉と比べて言っているわけではない。他の言葉がどうであろうと、日本語がどのような特性を持っているかには影響がない。そして、上記のようなむごい特性を持っているからといって、ほかの美点が打ち消されるわけでもない。)


日本語は他にも、家庭内で「お父さん」「お母さん」といったカテゴリーを一人称・二人称・三人称として使うという実にエグい特性も持っている。
これがエグいのは、そのカテゴリーの認定の基準になるのが、家族の中で最も幼い者だということだ。
すべての家庭がそうではないだろうけど、往々にして、家族中から最も愛され庇護されるべき者から見たときのその人のあり方を、人称代わりにするのである。これが愛情を盾にした役割の強要、人間性の搾取ではなくて何だろう?


わたしは、シスジェンダー・ヘテロセクシャルの女性であるけれども、女である前に人間だと思っているので、現代の日本語が息苦しい。まして、もし万一母親になって「お母さん」と自分の子ども以外の人間から呼ばれるようになったら、どれだけ苦しいだろうか。


古典をよむにつけ、自分は「我」、恋の相手は「人」だった時代の言葉をうらやましく思う。しかしそれは、その時代の人々がそういう社会・文化をつくっていたからなのだ。わたしはうらやましく思うだけでなくって、いまの自分に忠実な言葉を作らねばならない。
あるツイートによると、今の若い子の中には、90年代の小説などの倫理観が受け入れがたい人もいるのだという。

https://twitter.com/atsuji_yamamoto/status/839341396494450688

このツイートの主は否定的に捉えているようで、それには賛同しかねるけれど。(わたしも古典に現代人のコードを持ち込まれると激怒するたちだが、この場合は現代と地続きの時代のことだから、平成初期人と現代人との間に互いに相手を尊重するのに十分な距離がまだ育っていない。時代の違いの話でなく生身の人間の世代間の利害の衝突の話になるのに、時の流れをかさに着られては常に後から来た者が不利だ。)

ここで言いたいのは、とにかく若い人たちの感覚は平成生まれの中では古参のわたしにも、とてもよくわかるということだ。
上の世代からみれば幼く見えるだろうが、今わたしや、下の世代の人たちは、受け入れがたい言葉を拒否し、拒否する中から自分の言葉を探しつつあるのだろう。流行にはまったくうとくなってしまったが、まわりの人達がこれから生み出してゆく言葉には、心を開き耳をそばだてていたい。


なお、これ、2017年5月のメモに加筆したものなんですが、

思い出すのはアビーと秘密の部屋という映画のこと。マッドマックスは必要があったから。アビーと秘密の部屋では、必要がなかった。

という謎の一節が残っていて、何の話だ???となっている。なぞなぞみたいだ。怒りのデス・ロードには必要で、アビーと秘密の部屋では必要がなかったものって、何…?

わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?