卯の花の咲きぬるときは白妙の波もて結へる垣根とぞ見る

《私訳》
卯の花の咲くときは、この垣根をわたつ海の白波をもって結いめぐらした垣根と見よう。

新古今集・夏・重家。 本歌取りの歌である。
本歌は古今集。

わたつ海の挿頭にさせる白妙の波もて結へる淡路島山

まずは本歌のほうをみてゆく。
いきなり難をつけるようだが、ちょっと三句がもたつくのが気にかかる歌である。
三句に枕詞を入れ、あえて留保する技巧はある(半臂の句)。しかしこれは、それとは違う。
半臂の句であれば中に呼吸が入るが、この歌の場合は呼吸のしどころを失ってしまっている。

具体的に述べる。
二句「挿頭にさせる」の連体形は、三句に名詞句がくるものと期待させる。しかし実際の三句は「白妙の」。
二句と同じく連体修飾句であり、肝心の名詞句は四句「波」まで現れない。
その波も、現れたかと思うとすぐ、連体修飾句「波もて結へる」の一部となり、一首の焦点の座を淡路島山に譲ってしまう。
その肩透かしが、なんとももたついて感じられるとともに、息の継ぎどころを見失うような感じがするのだ。

このような遅延は、たしかにもったいをつけて、後にやってくるものを飾るような効果を持つこともある。ドラムロールなどのように。
だがこの歌の場合は、下の句があまりになだらかすぎる。
下の句の平穏さは、かえって上の句から下の句への移りのぎこちなさを際立たせてしまっている。

ドラムロールはむなしく消えて、ぎこちない上の句とすべり落ちる下の句。読者の私は、どこで息をつけばよかったのだろう?

「波もて」がそれまでを受け止めきれないまま先へ進んでしまうような、あるいは先へ先へと向かわされて、一息に「波」まで読んできた人の緊張が、ここで途切れて流れてしまうような、そんな作りの歌である。

このような全体を調えあげる力の弱さは、ほかの文芸ならばともかく、和歌としてはやはり弱点だと思う。

それでも古今集の歌は、つくづく古今歌である。
全体の構成がどれだけ拙くとも、モチーフの清新さとおおらかさのかもす魅力は否みようがない。
わたつ海、挿頭、白波、淡路島山。
万葉集に和歌のすべてがある、という人もいるけれど、わたしはやっぱり古今集を故郷としている類の人間だ。

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さて、この手の、モチーフや着眼は良いが表現がいまいち弱い、という手合いに、光を当ててくれるタイプの本歌取りというものがある。
家隆が「志賀の浦や遠ざかりゆく波間より…」でやってのけたようなたちのものだ。それは、定家が志向したものとはたぶん違う。

(定家はそれまでも行われてきた、古歌を拠り所にして詠むという行為を、意識的に修辞として用いた。
本歌取りという用語は狭義本歌取り=定家的本歌取りとそうでないものの区別を難しくしてしまう言葉で、専門家ほどその使用に慎重になると思うのだけれども、ここでは学校教育のレベルを意識して、本歌取り、という言葉をおとなしく使っておく。)

ずいぶん長く話しをそらしてしまったが、今回の重家詠も、古歌に光をあてるたちの本歌取りである。
重家は古今歌のモチーフの美しさ、イメージの残影だけを上手にもらい、弱いところは置いてきている。

三句の「白妙の」から四句の「波もて結へる」への移りは本歌とまったく同じなのに、初二句が違うだけでこんなにも調べが違う。

本歌の言葉遣いが弱い分、本歌に引きずられすぎたりする心配もない
(業平の「月やあらぬ」なんかを本歌取りするのは至難の業で、その言葉遣いをそのまま真似した場合なんかはたいがい見るも無残な出来になる)。

それでいて、本歌から三句・四句の12音という大きな字数をもらってきているので、本歌取であることが読者に伝わらない恐れもない。
読者の心には、おのずと白波の取り巻く淡路島の景がうかぶ。

こんな風に述べてしまうと、重家詠とは古今集のすぐれた言葉だけを切り貼りしてきたパッチワーク、優れた剽窃にほど近い類のようなものなのかとも見えかねないだろう(先程名前を挙げた家隆も、パッチワーク職人的な人だと思う。いい歌詠むけれど)。

しかし、この古今歌のイメージを喚起できなかったら、重家詠の魅力は半減する。そのことが、重家詠が本歌取り--すなわち古歌をとりこむことにより、新しく生まれてくる歌の世界に重層性をもたらすこと--の歌であることを何よりも証明している。

卯の花と垣根の取り合わせは鉄板であり、卯の花を白い雪や月の光に見立てるのも常套手段だ。
花を波にたとえるのも桜、藤など著名歌が多くある。
古今歌の海のイメージを呼びおこせなかったら、重家詠は卯の花垣を色の共通点から波に見立てた、というだけで終わる。何の喚起力もない、ただの美辞であり、実質を失ったむなしい比喩でしかない。

しかし、重家は、波を印象鮮明に詠む古今歌を本歌取りすることで、卯の花を白波にたとえる常套的な発想に力と立体感を与えた。この歌は視覚的表現に終始しているが、しかしわたしは、波の音が遠くから響いてくるような気がする。それがこの歌の奥行きなのだろう。

「〜ときは…〜とぞ見る」という、いささか古風な言い回しも、古今歌のスケールの大きさに出会えば、内容の薄さがむしろゆとりとして効果的に働く。

そう、その「とぞ見る」という結びがまたよい。
本歌では連体修飾句が続いたあげくに、それを受ける「淡路島山」が体言止めで投げ出されていた。どうも、詩的と言うよりは、前四句の重みに負けて見えた。

しかしこの重家詠では、「…とぞ見る」という結びが連体修飾句を受け止める。
響の上でも重みが出るが、それだけではない。
この歌を、理想化された景色の描写にとどめず、それを見ている主体の存在と行為を、ソリッドにいい固めることで終わらせている。
それは和歌としては全く珍しくない表現なのだが、平凡であるということは、その表現が一首の中で効果的であるということと全く矛盾しない。
珍しい言葉を使えばよいというものでないことは、重家と同時代、すなわち院政期に生まれた奇抜な歌たちを見ればよくわかる。

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これだけ長々書いてきたにもかかわらず、わたしがこの重家詠について言いたいことは、こんなことではない。

重家詠の一番の美点は、卯の花垣と、淡路島を取り巻く白波という、現実世界の摂理の中では重なりようのないものを、本歌取りによりつないで見せた点にある。

ある程度和歌に慣れてきたころにこの歌が目に飛び込んできたときの衝撃を、わたしは忘れない。
あまりにもあえかな卯の花に、島をとりまく挿頭の白波という大景がオーバーラップする。

卯の花、白妙、そして例の古今歌。
美しいが手垢のついた、空洞化しつつあるような美辞たちが、古臭いほどの句形(「…ときは…とぞ見る」)の中で、驚くべき新鮮さをまとっていた。
ごく自然に息をしていた。その自然な息遣いがどこからきているのかは、先ほどまで見てきたとおりである。

当たり前の、現実の論理で言えば、卯の花と淡路島をとりまく白波は繋げようがない。
両者を繋いでいるのは言葉であり、和歌という言語世界の蓄積である。
古今集から新古今集に至るまでの300年強。その間に積み上げられた表現の中で、和歌は現実世界の論理を超えた、自律する言葉の世界を生み出した。

古今集と新古今集の間にも、その後にも、有象無象の卯の花の歌があり、花と波の歌がある。
その表現史に支えられて、咲き出でたのが重家詠であり、重家詠の中で、やさしく思い描かれているのが古今歌であった。
和歌の言葉は、そうやって互いに支えあっている。過去の友、未来の友と繋がりあって、影響し影響され、よみかえられてゆく。けして一人にはならない。
だから、和歌の始まりは筑波嶺の連歌であるとも言われるし、また連歌、俳諧といった中世・近世を代表するジャンルも和歌から派生してくるのだろう、と思う。

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今回、私訳を作ってみたが、どうにもはまらなかった。それはどれほどこの歌が定型と歌ことばのリズムに支えられているか、思い知ることでもあった。

第1級の名作ではないだろう。しかしとえも和歌的な和歌だと思う。
わたしは定家が大好きだ。でもこういう歌を大切に思う気持ちを、忘れないでいたい。

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