【ホームスクール】学校とのやりとり②卒業証書
ホームスクーリング・センター木蔭は、2008年からアンスクーリング暮らしをしてきたわたしたち家族の経験と洞察をいかしてまとめたウェブサイトです。「学校とのやりとり」はどんな状況の家庭においても役立つ内容なのではないですか?」と提案されてできあがったページが『つなぎあい>知っておきたい法律と用語』です。現在は『法律』と『用語』を別々のページにしました。
用語解説集を始めます。
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「卒業証書」と「卒業証明書」の違い
これを知っていると安心感を覚えます。
卒業証明書は郵送でも申請できます。
小中学校は義務教育期間なので、ホームスクールであれ、フリースクールであれ、オルタナティブスクールであれ、ほぼ一条校の在籍生徒となったままでしょうから、出席が0日でも卒業生徒となります。
公的な「学歴」の証明を求められた場合は、公的な書類としては一条校の卒業証明書だけになります。
自己推薦書
そのほか「自己推薦書」というのもあります。
ウチでは「自己推薦書」を作成する機会はありませんでしたが、そういうものが「あるんだ」と知っているだけでも、「方法はある」という安心感が得られました。
フリースクールやオルタナティブスクール、ホームスクールで過ごした内容を誇りと自信をもって伝える手段があるんだと知っているのです。それは学校の評価と互換可能だからという理由は一切不要で、学校教育とはまったく異なる自由教育の中で培ってきたものとしてとらえることが重要なのですね。
卒業式と卒業証書
木蔭ホームページ「知っておきたい用語」のなかには「卒業証書」「卒業証明書」はないのですが、卒業式に参列するか否かの点で学校とのやりとりが発生するとき、「卒業証書」の存在とそれを「受け取る」儀礼について考えてしまうことが多いと思います。
どうしよう?と迷ったときは、【課題をシンプルにする】を基本とするのがいちばんです。
「卒業式」に関係する課題はなんですか?
式に参列すること
卒業証書を受け取ること
「式に参列しなければ、卒業証書を受け取れない」とか「式に出なければ卒業できない」などと問題を複雑にする必要はありませんよね。
課題を因数分解すれば、もっとも重視することはなにかが見えてきます。
・気持ちを整理する
・一区切りをつける
これらは学校の先生方からの説得にはよくある動機付けかもしれません。もちろん本人もこういった動機づけが必要だと考えている場合もあるかもしれません。ただしその場合は「年齢に見合った人生儀礼としてしなければならないこと」という価値観念から生じるものではなく、気持ちよく切り替える手段として用いるならば私は賛成します。
ホームスクールであることは、学校的な人生儀礼に沿うことや、年齢=学年という価値観念から離れているからです。
「卒業証書」に関係する課題はなんですか?
卒業を証明されること
公的な証明書を得ること
「卒業式に参列しないと卒業できないよ」は励ましではなくて、根拠のない脅しでしかありませんから、その説得方法は賛同できません。
卒業式(それが別室でおこなわれるものであっても)に参列する理由が、「先生に失礼だから」とか、「義務教育の修了つまり親の義理はこれで果たしたとわからせるため」だとか、そういった本人以外の大人の都合で説得されるのも賛同できません。
やっぱりどうも私のとらえかたでは、学校とのやりとりは「事務的」で済ます態度です。とはいえ、ここでしっかり伝えておきたいのは、事務手続きを事務的に済ますことと、人とのやりとりを事務的機械的にやり過ごすこととはまったく違う話ですよ、ということです。
手続きに感情をのせる必要はありません。
義務教育の証明とはなにか
では、小中学校程度の学習内容を履修したという証明なのか、という疑問が生じるでしょうか。
それは
・小中学校程度の教科書の内容を理解し「できる」証明
なのでしょうか。
その観点を問い直します。
どのように解釈すれば幸せか
私は常にこの視点から物事をとらえなおすことにしています。
自分にとって「このように解釈しておくと幸せだ」と納得する地点に居ればそれでよいからです。「それで幸せ」であれば自分にとっても前向きな態度でその先の物事をよい方向に選択できるようになるし、周囲にとっても悪いようにはならないからです。
「小中学校を卒業した=小中学校の授業をすべて理解できる」
この図式は必要でしょうか。
わたしはいつも思い出すのです。小学校でも中学校でも高校でも、授業のすべてを理解して卒業した子はいたかな?って。
そこが「出席主義」の日本の学校の課題でもあり、短所でもあるけれど長所でもあるのです。もっともその長所が「クラスメートと一緒に。仲間と過ごす。大切な時間。」というフレーズで、いろいろな「学校に来るべき」論の説得話法に使われてしまう途端に「都合の良いもの」になってしまうわけですが…。
学校は人生のうち定めのある年齢の時期に過ごす場所で、教師をはじめいろんなおとなたちが大勢のこどもたちと関わり、その成長を手助けする場です。
視点を変えれば、大勢のこどもにとって、学校は生きている「空間」と「時間」の大幅を占めていることには違いありませんが、【一部】であることも確かなのです。
習い事として別の「場」があれば、その「空間」と「時間」で過ごす人生の一部があります。
家という「場」では家族と過ごす「空間」と「時間」、ひとりで過ごす「場」では自分だけの「空間」と「時間」を持ちえます。
それぞれの「場」において、その「空間」と「時間」の経験は、ひとりひとりその重さも違っているはずです。学校だけは人生の「すべて」ではないわけです。その割合が、学校だけに偏らず、多種多様に持っていて、ゆるっと移行できる環境は、こどもにとって、こどもに限らずすべての人にとって、健全な環境です。
義務教育期間と定められたその年齢の間に過ごした「場」「空間」「時間」に培われたものがあるとするなら、それで充分なのではないか。
そんなことを思うのです。
【年齢=学年】の固定観念を解放し、【学校=学習獲得】の独占も概念も問い直してみてはどうでしょうか。
「教育」と「学び」を要にして
私は一度、こどもたちが在籍する学校の学校長から「学校は地域ではないんですよ」と言われたことがありました。いわんとするところは「こどもたちを育てる地域の役割とは異なる、国が定める教育の場である」ので、保護者の意向など無関係のところにあるし、地域に協力するものでもない、地域から隔離された特別な場所だということでした。
いまでしたら「とんでもない考えだ」と考える人の方が多いことでしょう。
当時はまだそれだけ学校は聖域でしたし、先生は聖職の色を残していたのです。
地域と共に在る学校の姿が、現在の姿であろうと思います。
しかしながら、やはりいまだに学校はこどもが居るべき中心として位置づけられています。その位置づけのまま、学校の在り方を多様化しようと試みられています。そして多様な居場所はそんな中心である学校に認められるカタチで存続しようとその制度の仕組みを変えようとしています。
問い直したい根本はそこなのです。
「教育の機会」は下記にある通り、教育行政は国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の元、公正かつ適正におこなわなければならないとされています。
今現在、不登校児童生徒の支援に関わる取り組みとして、普通教育の機会の確保がいわれています。そこでは「教育」の視点から語られています。それは要のひとつです。
けれどどこか、どうしても、なにかを取りこぼしている気がしてなりません。
「教育」の視点は、教えを与える者と教えを受ける者の二者が対峙する構図です。そして「学習」は発達と成長に伴って獲得する過程です。挑戦し失敗することを重ねながら技術を獲得していく様子です。
「学び」の視点は、教育をきっかけに拡がるものもあれば、点と点が結ばれた瞬間に得る気づきもあれば、「失敗から学ぶ」など新しい視点を得て視野が広がっていく様です。
教育でできることはとても限られてことに過ぎないとは確かな事実です。「親が子に教えて身に着けさせた」ものは本当にあるのだろうか、とも思うほどです。本人が学び、気づき、会得するのは、やはり本人の力です。
他人にどこかの時点でいいきかされてもそのときに納得するものがなければ記憶にとどまりません。自ら発見し、気づき、腑に落ちたときが「学んだ」ときです。
こどもをとりまく環境をつくる
卒業の証明の意味、中身というのは、「学習の達成度」のみではないことはもっと”あたりまえ”の感覚を持ってとらえていていいのではないか、と思うのです。
ホームスクール暮らしは、”学年=年齢”がありませんから、おのずと”卒業”の概念からも離れていて、”区切り”の意味をあまり重視しません。ホームスクールに卒業はないのかもしれません。その行動と態度が続いていきます。
”家庭を基盤とする”のはそういうわけで、人がはぐくまれていく基盤が家庭にあるわけですから、その学びが生きる態度となるのでしょう。
学校で過ごした多くの時間もまた、生きる態度としてその人自身を作っていることに違いありません。
教育は、環境を作ることです。
こどもの後ろ姿を見送るとき
教育現場にいらっしゃる先生がたにしろ、家庭で生きる時間を共にする親にしろ、こどもの年齢とともに関わりかたが変化していきます。できることは限られていて、どれだけできたのか、できなかったのか、痛感することでしょう。どうしてそのように感じてしまうのでしょうか。
親のしつけも、教育の成果も、世間がこどもを判定(ジャッジ)することに原因があります。与えたものの成果を、こどもに求めるからではないでしょうか。
問い直したいのは、その古い構図です。
ひっくりかえしてしまってよいのは、その古い価値観、世界観です。
それは、古いこども観です。
おとなとこども。
そんな立ち位置から卒業して、対等な人として在ろうとしたとき、謙虚さが現れ、個人の尊厳を最大限に尊重する態度に気付いていくのでしょう。卒業するということもなしに、最初から「おとなとこども」というこども観を持たなければよいのです。
互いに、人と人として対等にあろうとする態度は、能力や技術の差を問いません。寄り添うことはとても難しいように思うのですけれど、相手に敬意を払い、その意思を尊重し、同時に自分の意見を理由なくひっこめずにいられる関係でいることはできるような気がするのです。
それでも目上に対する警戒心という本能はなかなか高い壁です。その壁は幻想だよ、とどうしたら伝わるのか、日々悩むところでもありますね。
アンスクーリング暮らしですごした10数年を経て、家族の様子を眺めたとき、うっかり「成果が出た」と感じる瞬間もあります。料理がみなできるようになったとか、問題解決の能力が高いとか、思いやりや思慮深さが見える、とか。でも、それはやはり本人が本来持っていた資質です。
わたしは、どれだけこどもの成長を邪魔しないでいられたでしょうか。
わたしにできる範囲で、自分を律することに尽くせたでしょうか。
こどもに言いたくなる「だめ」を飲み込み、
「できない」を取り消し、
「ごめんなさい」を言えたでしょうか。
こどもの後ろ姿をみおくるとき、思っているのは、こどもの成長ぶりよりもそんな自分のとった態度や行動の振り返りかもしれませんね。それは人生の終わりに始まることと同じです。
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