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執着するなよ

 長くなりそうな予感がしたのでnoteに書こうかな、と。
 つぶやき日記です。

【罪をつぐなうということ】

 「いじめ」をテーマにして、これまでなにかをどこかに書いたことは無かったと思います。確たる理由はないかもしれません。書こうかと思ったことは何度かありましたが、やはり「書けなかった」のでしょうね。
 ただ、こんな話は書いたことがあります。

子どもを殺めた殺人犯に死刑を求めて、それで解決するのだろうか。

 私が子どもの頃の事件です。死刑を求める世間の声がテレビで流されたところを見て、私はそこから考えたことがあったのでした。

罪を犯した人を死刑に
・しあわせになれるのは、誰か。
・こどもを殺した罪を犯した人が、その罪の深さを知るにはどうしたらいいか。(この事件では犯人は殺されたこどもとは全く縁もゆかりもない人物だったと記憶しています。)

 これを検証しはじめたわけですね。それで、当時こどもだった私が出した結論は。

犯人が、どれだけ、こどもという存在がかけがえの無いものであるかをいしらなくちゃいけない。
 ↓ (つまり)
犯人が、家族を持つという幸せを経験しなくちゃいけない。
 ↓ (だから)
罪をつぐなって、一生その罪の重さを背負っていくんだ。 

 余談ですが、その後、自分自身が子を持つ年齢になって、似た事件をテレビのニュースで知りました。かなり長いことトラウマになりました。それ以来、トラウマになる可能性のある事件のニュースは、こどもには見せてはいけないと強く思いました。テレビを置かない暮らしのはじまりはそこからです。
 子どもを持つ我が身となって、自分なりに「もしこうだったら・・・」の答えは持っていたわけですが、それでも、似た事件のそれがとてもショックであることは間違いなく、また、いまだそんな事件がどこかで起こっていて、それは必ずしもどこか知らない遠い場所で、というわけではないということも、続く死刑を求める裁判のニュースも地元であったためかよく流れていて、長いことひきずりました。


【虐げた者 虐げられた者】

 ところで、「犯人の幸せを願う」といっても、それは「どこか遠いところで、知らないところでやってくれ」ということも考えます。

虐げた者が、虐げた過去を悔いて、改心した
 ↓
虐げたことを理解した
 ↓
虐げた者に許しを乞う

 虐げられた者の立場から考えて、「そんなシチュエーションは、願わない」と自分なりの答えがあります。
 どれだけの罪を犯したのかを充分に理解した者を前にして、そして「許してほしい」と頭を下げられてしまったら、その後、いったい、誰にぶつければいいのでしょうか。虐げられた理由を。
 
「誰も悪くない」と運命を呪えばいいのでしょうか。「たまたま、自分がそこに居て、そういう目に巻き込まれただけだ」と「事故なんだ」と受け止めればいいのでしょうか。

 冗談じゃないですね。いやですね。そんなことは受け容れたくないですね。
 どうか、いつまでも「虐げた者」は、「虐げられた者」から、さげすまれていてほしいです。それは「虐待」がこの世に存在することを徹底的に認めないと考えるからだと思います。


【「虐げられる」ことにレベルがあるのか】

 「いじめ」という言葉は、なかなか私には使えません。その理由は「いじめ」というのが、なにか犯罪として「軽度」のような印象を受けたり、そういった「程度」を客観的に表示するモノサシのように感じるからです。

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