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#27 ~日本独特の文化です~③入学や卒業が「おめでとう」とお祝い事であることに違和感があるんです

『ホームスクールをあたりまえに生きてる』エッセイ 第27弾
入学や卒業が「おめでとう」とお祝い事であることに違和感があるんです③
~日本独特の文化です~


 完結編です。これまでの経緯は…。

・卒業証書授与式参加の強い要望が学校からあった
・「本人代理で保護者が証書を受け取る」事実が作られた
・保護者に承諾を得ず、家庭訪問を強行した

 学校を批判することが目的ではないですよ。ただ、もう少し上手なやりかたがあったでしょう?という提案です。
 だって、やることなすことのなにもかもが、「上への報告のためにしなければならない」「本来の業務ではない余計な業務に従事せずを得ない状況」があからさまだからです。《誠意》で取り繕うことすらも下手すぎて、ただの誤魔化しになっています。残念です。


”卒業証書授与式”を、安全点検の機会にするべきではありませんでした。

 ・卒業証書授与式に参列しなかった児童生徒
 ・長期欠席者
 ・一度も面識がない児童生徒

 一度も面識を持てなかった理由と責任は誰にありますか。
 これまで一度も「会う」までの信頼を得るような働きかけをしてこなかったのは誰でしょうか。
 それをさせなかったのは何が理由でしょうか。

 教育機会確保法の成立以降に、ホームスクール家庭の間にはひとつの懸念がありました。「学校側が児童生徒を放置するのに都合のよい理由ができてしまった」ことです。表向きは「多様な教育機会を尊重する」で通ります。保護者の意見を尊重する体で、実際にはどのような前提と共通認識を持ち、合意形成を経る過程を無視する口実ができてしまっているのです。
 教育機会確保法の「多様な学びの保障」を拡大解釈する家庭がおちいる学校への過大な期待を、家庭の自己責任に押し付けてしまう格好がついてしまうのです。

 また、「不登校支援の在り方」は、長期欠席児童生徒のさまざまな理由から「不登校」を殊更とりあげることで、問題と課題を「不登校」のみに集約させてしまいました。そうすることで《学校教育制度の見直し》から目をそらすことができます。不登校のみに焦点をあてれば、すなわち【学校の中】の環境を改革することで目下、課題解決にあたっているように見えるからです。もちろんこれは結果論かもしれません。でも、意図的であるように思うのは、長い長い不登校の歴史を振り返ればさもありなんと感じることではないでしょうか。

 そんなことを考えると、やはりそもそもの始まりに疑問が生じるのですよね。行政が決定するそもそもの大前提では、「公教育=学校教育制度の現状維持」が必要なのでしょう。なんといっても国家教育、国民教育の場ですから。表裏の顔があって当然です。各方面に都合が良いことがすり合わさってそれは現存しているのです。


なにをさしおいても信頼を得なければと思わなかったのでしょうか。

 どうしてそれを忘れてしまっているのでしょうか。
 ここまで学校の先生方の自立と自律がふみにじられている現状があるのだと、そればかりが嘆かわしいと感じます。

 人と人との出会いであったはずの学校は、ここまで「政府の末端機関」に堕ちたのだ、と思わずにいられません。

 どうして「長期欠席児童生徒とその保護者」の眼鏡をはずそうとしなかったのでしょう。
 どうして「虐待防止のための安全対策の実行」という任務遂行を優先してしまったのでしょう。
 どうして「対等な人とまみえる」感覚をすっかり置いてきてしまったのでしょう。
 どうして「学び合える」ことを自覚しないでいられたのでしょう。
 
 血の通った温かい関係で、扱われていないのは学校の先生方の方かもしれないということです。受けた扱いを弱者に対して同じ態度、同じ視線を注ぐ事実です。


 学校文化が、一般常識だと勘違いしないでほしいのです。
 オルタナティブ教育は、既存の学校文化とは異なる文化が育ちます。文化と言う表現がわかりづらいのであれば、多様な価値観と言い換えればよいでしょうか。

 

学校文化を前提にした価値観念を常識だと思い込んでいないか


 まずそこから始めてほしいのですよね。

  卒業式の始まりの歴史を知りました。超長文になりそうなので別の機会(シリーズ)で書きます。ここで言えるのは「卒業式や入学式が盛大なお祝いになるのは日本の独特の文化である」ということです。


 当時、中学生だった長女は、突然おしかけてきて卒業証書授与式をはじめた先生方に大人の態度でつきあいました。
 当時、中学生だった長男は、学校を特別視していなかったので「会いたい」と言われれば別に構わない態度でいました。
 当時、中学生だった次男は、「この1回で顔をみせておけば、あとの面倒は一切ない」という説明をわたしから受けて、納得して承諾しました。まぁ普段からも訪問客があったらひょいと気軽に顔を出す性分でもありました。
 末っ子の次女は、感性が鋭く、「先生っぽさ」に特に嫌悪感を示すほうです。指導されることを嫌い、人と対等であることを望み、偏見や先入観無く相対することを望みます。「こども嫌い」に見えますが、”大人が期待する子どもらしさ”を演じる人間が苦手なのかもしれません。

 ひとくくりにした知識で、目の前にいる人間を分かった気にならないでほしいのです。知っているつもりにならないでほしいのです。
 知識は知識として大切なことですが、やはりそれは一側面に過ぎないのです。立ち位置が違えば、備えることも違うのです。

 卒業式や卒業証書授与式が重んじられる理由は、それが学校文化のなかで通じることです。人間の人格形成に必要な普遍的な通過儀礼だと思い込まなくていいです。


 こうして書いてみるとやはり思います。

 支援の在り方と法律が結びつき、ある程度の仕分けが実現してしまったことです。そのことで、自分の行動に責任を負わずに済んでしまっていることです。

 人はもっと手の届く身近な存在なのだと実感するためにはなにが必要でしょうか。
 ”ちいさな幸せ”と呼べるものに多く触れることでしょうか。


 久しぶりの更新で、このシリーズはこんなに長文にするつもりはないのに、なんだか思考が発展してしまいました。おつきあいくださりありがとうございます。

 またね。

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「ホームスクールをあたりまえに生きてる」シリーズを集めたマガジン 2022年5月スタート。 更新中。基本的に全文公開としています。 気に入…

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