『学校は義務じゃない School is not compulsory イギリスのホーム・エデュケーション実践の手引き』(1997年)
【ホームスクール研究】メンバーシップ特典記事です。
#今年のベスト本
ホームスクーリング・センター木蔭
つなぎあい>日本のホームスクールの歴史
上記のページでイギリスのホームページ組織《Education Oterwise エデュケーションアザワイズ》について触れました。この内容は参考論文からの引用にとどまっていましたので、エデュケーションアザワイズ・ジャパンについての資料がないかを探していました。そして、次の書籍を見つけました。引用しながら、日本の場合をあてはめて考えてみます。
『学校は義務じゃない イギリスのホーム・エデュケーション実践の手引き』
エデュケーション・アザワイズ著
訳・相沢恭子(アメリカ・ホームスクール協会公認サポートグループ「アザワイズ・ジャパン」代表)、石井小夜子(弁護士)、鳥居祥子(翻訳家)、平山由美子(翻訳家)
1997年4月30日第1刷発行・明石書店
エデュケーション・アザワイズ(EO)
ホームスクール組織について米国のふたつの源流と英国の流れに日本のホームスクールは大きな影響を受けてきたことを木蔭ホームページでは伝えています。イギリスのホーム・エデュケーション活動組織とはどのようなものでしょうか。
基本理念
沿革
組織
ホームエデュケーションを支えるネットワーク(イギリスの例から)
2021年11月15日に投稿したFBページの記事です。
ウェブサイト
EDUCATTION OTHERWISE
https://www.educationotherwise.org/
HOME EDUCATION ADVISDORY SERVICE
イギリスを例にホームスクールを支えるネットワーク(組織)について知ることができました。日本でも、日本のホームスクール実践を支えるネットワーク(組織)は強く求められています。では、わたしたちは、どのような支えを必要とするのでしょうか。イギリスのネットワークの在りかたは、日本のホームスクール実践者が求める具体的な内容を考える動機に導いてくれます。その特徴的なものを知ることとなった強く印象に残っている箇所が次の部分です。
自助組織とは
「自助」の言葉の意味するところは、あらためて共通認識として持っていたい部分です。「自助」「互助」「共助」「公助」とはどのような概念なのでしょうか。
これをふまえると、ホームスクールを支えるネットワーク組織は「互助」に該当すると考えてよいでしょうか。それとも”自助”活動を支えるための存在として「自助組織」と認識すべきでしょうか。そして、もちろんホームスクール家庭に思いもよらない問題が生じても安心してホームスクールを続けることや他の家族と共同して学習活動に臨むときに必要な「共助」の社会制度も必要でしょう。「公助」については今でも議論にあがる一面もありますが、その手前で今一度考えておく点が多いはずです。
”費用負担が制度的に裏付けられていない自発的なものであり、地域住民の自発的支援やボランティアという形で、支援の提供がなされるもの”が「自助」ということです。EOはいろんな経験を持つ人同士がその経験と知恵を惜しみなく提供しあうことで、自らの行動に役立て、自律的に目標に到達します。「中央集権的な組織ではない」「ある家族をサポートするというのは彼らのためにすべてしてあげることではなく、彼らに対して、自分がしてもらったように彼らが自分自身の力を見つけてそれを強化し、そして自分たちでできるようにしてあげることなのです。」という姿勢と態度は、対等な関係を大切にするホームスクール実践家庭にとってもっとも望んでいることです。必要な支援を必要な時に適切に受けることができる社会制度はもちろん重要なことですが、それとは別に、「支援を受ける側」と「支援を与える側」といった構造や、「支援を受ける=社会的弱者」と無意識に決定づけられてしまう社会のありようには自覚的に受け止め、問い直す機会につながってほしいと思っています。
どのようなネットワーク(組織)を望みますか。そして、どのような制度を望みますか。市民の声を掬い上げるには、民主的な態度を社会全体で深く理解する必要があるのでしょう。
イギリスの教育制度
フルタイムの教育
学校制度
ホームスクール登録制度の是非
イギリスの場合「政府の教育サービスの受給者」がキーワードになりそうです(1997年発行の書籍ですので、現行制度の確認は必要です。)。いったん公立学校に入学し、入学するだけではなく授業を受けるようであれば「リスト」に登録されます。初めからホーム・エデュケーションであれば、このリストに載らないので、教育局からの介入はきわめて少ない状況を得ることになります。
日本では基本的に戸籍の通りに「すべてのこども」が対象となり、すべてのこどもが「児童生徒」になりうるわけです。それでイギリスのケースにあてはめると、「リストに載っていながら、ホーム・エデュケーションに切り替える家庭が遭遇する教育局とのかかわり」は非常に参考になります。
わたしはこの本を本当に今初めて読んだのだろうか?と思うほど、書いてあることすべてに「すでに理解している」と感じました。それほど状況はよく似ています。対立するのではなく、おのおのの立場から、こどもの教育について最善を考えあっていく関係です。その第一歩として、家庭からは学校や公教育の役目と責任について知ることは非常に有効ですし、双方共に児童の権利について、人権について、よく知ろうとする姿勢が重要な鍵となることでしょう。なにより互いに「話し合う関係を続けていく」覚悟はこどもにとってもっともよい環境につながるものでしょう。それはこどものセーフティネットを社会に創るという意味で重要なことだからです。
二重在籍と登録制度
はじめに。「登録制度」というのは、学校に通う児童生徒とは区別して、《学校以外の場所で過ごすこども(主に義務教育期間の児童生徒に相当するこども)》を登録する制度を設けたらどうかという提案が、不登校支援のなかでたびたび出されています。そうすることで学校からの望まない介入を避け、学校との負担の多い関わりを無くすことができると考えるもので、目的は親と子の精神的負担の軽減です。学校に子が行かないことで生じるさまざまなプレッシャーから解放されるための手段として提案されます。
将来的には、学習教材の提供内容を考えるうえで「学校に通う児童生徒」と区別することで、学校教育の学習課程をどのように学校教育とは別の形態で提供できるか、の観点で議論が進むかもしれません。すでにそのような形態は実現されつつあります。ただそれはそもそもの集団教育の場である学校教育のカタチを別の形でも同等のものと判定できるように評価基準を大幅に変えることと同義ですから、学校という概念をひっくり返す制度改定につながる可能性は否定できません。現状の「出席扱い」の議論はやがてそこにつながります。二重在籍を解消する方法として登録制度を採用する、という提案があります。
「二重在籍の解消」の提案は、”学校に行きたくてもいけない状態にある、できるなら学校に行けるようになりたい”子とその親たちにとってはこのうえない不安材料でした。なぜなら、学校以外で過ごすこどもたちのうち「フリースクール」「学習施設等」といった帰属先を持たないこどもたちのほうが圧倒的多数だからです。ホームスクールも帰属先を持たない家庭のほうが多いでしょう。二重に在籍している児童生徒を対象とするのではなく、「学校に行けない・行かない」状態にある者でくくられることで、「学校以外」認定登録に該当したとき、果たして、どこから情報提供を得たり、配慮を受けたりすることができるのか。意図して狭間に置いて行かれるのではないか、ということでした。これは同時に「”学校”に帰属しないのであれば、”学校”以外で帰属先を持たなければならない」と言われているも同然でした。
帰属意識から解放されることは、ホームスクール家庭が互いに共感する信念のひとつに挙げることができます(すべてのホームスクール家庭がその信念を持っているという意味ではありません)。社会の一員であることは、社会的に認知されている(未知の、非社会的でない)どこかに帰属が許可されていることで社会的存在であると容認される者のことをいうのではなく、真の意味で市民とはなにかを問うからです。ここでもまた社会常識とつながる”価値観とはなにか”が問われます。
⑴校納金の負担について
フリースクール運動において、一条校とフリースクールの二重在籍はたびたび課題として挙がります。その根拠は主に「学費の負担」が挙げられていることが目立ちます。やむを得ず学校以外の教育機会を選択した家庭の経済的負担を軽くするという目的が上位です。
本書のなかでも「ホーム・エデュケーションに係る費用について心配です」というような内容の質問がとりあげられていたと思います。それについて、第一に「学校に通う場合の学費負担費用はそのままホーム・エデュケーション活動に使うことができる。」、第二に「教育を受けている期間にあるこどもはすべて児童給付を受けることができる」といったことが挙げられています。また、共働きの場合にはどちらかの親あるいは両親が働き方を変えることで収入がさがる、キャリアに影響がある点が指摘されますが、これは学校に通う暮らしからホームスクールに移行することのみに該当することではありません。数ある多くのキッカケの一つには加えられますが、本質的には”こどもの状態”に応じて、いかなる場合でも両親の働き方は検討する機会に出合うことでしょう。こどもの健康や習い事、生活環境の変化でも生じることです。ホームスクールが抱える問題というより、子育ちと教育に関わるすべての家庭で共通の課題です。
日本でも同様のことが言えます。しかし、ここで少し異なるのは日本の場合は「学校機関でおこなう授業や学習活動を(一部でも)受ける」ために、校納金は免除項目無く、すべて収めなければならないと捉えるケースが非常に多いということです。感情的な理由も混ざります。校納金を納めないことで「学校でおこなわれる教育活動の提供を受ける権利を失うのではないか」という怖れと、「いつか必要になった時に、親はあらかじめ子のためにすべて準備しておくべき」という考えです。結論から言えばこのような心配と恐れは必要なく、【必要に応じて対処する】だけでよいのです。もちろん「在籍しているのだから、校納金はすべて納める義務がある」というのも違うことがお分かりのことと思います。校納金(学校徴収金)は児童生徒ひとりひとりの学習活動に必要な「当人のためだけに使われる」私費の部分であり、学校全体の学校運営費を「在籍生徒で分担する」公費の部分を負担するのではないからです。公費の部分は税金です。在籍生徒の家庭のみならず、地域住民および国民が納める税金から成り立っています。学校に通うこどもがいないからといって学校運営にかかわる税金を納めていないわけでもなく、納めないでいる理由もないわけです。
公費という観点で見れば、学校運営だけでなく図書館や博物館、運動場や公園など、教育活動に係る費用は納税者全員で支えています。学校だけでなく、そのほかの教育活動施設の充実にも目を向けてほしいものです。そうすれば通学費用の負担軽減という観点からでなく、すべてのこどもたち(こどもだけでなく、学習を受けたい市民全員)に関わる教育活動の社会的負担をどのように社会が担うべきかという観点での議論が進むことでしょう。それは帰属先を持たないもっとも多くの”家庭を基盤に学んでいるこどもたち”にとっての最善の利益にもつながるでしょう。それを期待しています。
⑵教育監督命令
日本では教育委員会が公教育に関するすべてを担当するため、教育に関する主な相談先、最終決定、判断するのは教育委員会にあるように考えられています。しかしすでに広く知られているように、日本でも「普通教育」の概念が浸透してきました。《普通教育とは学校教育には限定していない》という憲法の基本理念についての解釈です。
イギリスではどうだったでしょうか。
非常に稀なことですが、ホーム・エデュケーションが児童にとって適切でないと思われたとき、教育監督命令という通知が出されるとのことです。「こどもを学校で教育を受けさせるようにしなさい」という内容のようです。もちろん通知が出されても家庭はその判断を再検討するように求める機会は何度も与えられています。ましてやこのことで裁判に発展することは無いといってよいほどとも書かれています。
この過程で、教育監督命令を出されたこどもは一時的に保護され、親の監督からいったん引き離される状況が起こるようです(もちろんめったにあることではないといいます)。日本でこれにあたることは、児童相談所の指導が思い浮かびます。児童の福祉という観点になるわけですね。
福祉という概念は、非常に地域の社会常識に左右される分野ではないだろうか、と思います。単純にいうと「児童の権利」に基づいて判断するのではなく、「児童の権利を守るために一般的に行われていることに従っているか否か」の判断基準を持つ態度のことです。この取り違えがたびたび起こりますが、そのとき、「価値観の違い」が問題とされてしまうこともまた混乱のもとではないかと考えます。
こういった点でも、観るべきところといいますか、視野、視座を問うてみる姿勢は重要なことではないでしょうか。
⑶セーフティネット
ホームスクールで過ごしているとしても、同時に一条校に在籍している児童生徒であることがほとんどです。学校との関係を断絶しないでいることは、こどもたちが相談できる場所をひとつでも多く確保しておくためにすることのひとつです。つまり、こどもが困ったとき、本人あるいは助けを呼ぼうとする周囲の人が連絡できる場所をいくつ用意できるか、です。
一般的には、なにかこどもに問題が起こった時、多くの大人は当人が通う学校に連絡をいれなければと考えます。小学生でも、中学生、高校生でも、です。(大学生はどうなんでしょう…?)なぜか、親よりも【先生】が重視されます。ホームスクール実践中の場合は、連絡先の一番目は【家】です。つまり真っ先に【親・保護者と連絡が取れる手段】です。だから親御さんの勤務先とか、祖父母宅の場合もあるかもしれません。あるいはその日の予定にある外出先とかも候補に入りますね。こどもがよく行く場所もそうです。児童館、公民館も含むでしょう。友人の家ももちろんです。近所で顔見知りの世話好きなおじいさんやおばあさんのところもはいるかもしれません。民生委員さんも。その次くらいに「学校」です。「教育委員会」もありです。場合によっては「かかりつけ医のいる病院」も連絡先リストにはいっているかもしれません。
これはホームスクール実践家庭に限ったことではないのですが、登録制度によって、《学校に通う児童生徒》と《学校以外で過ごすこども》が、こどもとして区別されることは望ましいことではないと思うのです。その境界線を引いてしまうことで得るメリットはこども側にあるのでしょうか。今一度、学習環境整備を目的とする政策が、「教育を受けさせたい」大人にとってのメリットが優先されていないか、こども中心であるのか、のチェックはするべき項目ではないか、と考えます。
家庭目線で考えるときに、これはとても重要なのではないかと思うのです。決定されたことにどう従うかではなく、家庭が第一に監督する権利があると意識を持つようになればよいと思います。
親の教育権
米国の例にしろ、英国の例にしろ、「親の教育権」が強いと感じるところがあります。親の教育権という権利の保障がしっかりあるわけですが、別の側面から見れば「親の責任」が大きいことも意味します。親の行動と決定が上位にあって、なおかつ強いという印象です。
親の教育権はどのようなかたちで明言されているでしょうか。
これを根拠として、親の教育方針によってこどもをホームスクール(ホーム・エデュケーション)で育てることを決めることができます。根拠としてよく挙げられる内容です。
ホームスクールを選択する理由のひとつに「学校教育への疑問」があります。昨今では日本でもこの理由は上位に挙げられていて、最近見た記事ではその理由でインターナショナルスクールを検討する家庭が増え、裕福層に限らず、ごく一般的な層であるとの指摘がありました。そのためスクール運営側も、授業料もリーズナブルな設定にするなど幅広い募集に応える用意ができているようです。選択肢があり、なおかつそれを選ぶことができるかどうかを問わなければ、「学校教育への疑問」を感じない人は少なくないのかもしれません。わたしたちの家族がホームスクールに移行した当時2008年頃でも、学校の実態をよく知る先生がたこそたちが、まず我が子の通う学校に公立学校を選ばない傾向はよく知られていることでした。
「こどもが学校に行きたくないとの意思表示があれば、学校以外の機会を検討する」家庭は多かったものの、初めから親が日本の公教育の提供を選ばないということの抵抗は強いものでした。しかし、徐々に薄くなっているのでしょう。今までは「親の教育方針」を理由にこどもが学校に通うことに消極的になっていると受け止められるケースでは「親の無理解」とみなされることが常識でした。「こどもは学校で教育を受けるべきであることを理解していない」とみなされていたのです。
たいていは学校に通っていた我が子の不調を鑑みて、こども自身の問題ではなく、学校環境と合わないのではないか、と親が考え始めることから発展します。そして子にとっての最善を考え、親の責任として引き受ける結果としての「親の教育方針」です。就学年齢前であっても、それまでの様子から「小学校入学はまだ適切な時期ではないのではないか。学校の学び方は、この子には合っていないのではないか」と考える親ももちろんいるのですから、「親の教育方針」は、こどもをよく理解している親だからこその判断であり、決定です。
こどもの学習機会を奪うのではないか、との怖れと不安の根底にあるものは、「普通ではないこと」への怖れとつながっているのではないでしょうか。「普通は学校に通うものだから」とか、そういう世間的な考えにそむくほどの確証があるのだろうか、と不安になるときかもしれません。その不安はときに学校との関わりのうえで「妥協」という態度に現れます。あるいは「許可承認されるために条件をのむ、指示に従う」などです。それは互いに協力しあっているとはいえません。ひとつひとつの行動の動機をみつめなおす余裕はいつでも必要なのだ、ととても思います。
日本の現状は、こどもの学習権を尊重する意識に加えて、親の教育権についての意識もあがってきたといえるのではないでしょうか。堂々と、広い視野を持って、なおかつ情報を得て、いつでも予定を変更できる柔軟さをもって、親の意志を主張することがあたりまえにできる社会はどのような社会でしょうか。
《間違っても大丈夫》《挑戦しても大丈夫》と、誰もが安心して悩み、葛藤し、自ら決定できる社会です。
ホームスクールを実践する根拠としてあげられるものですが、これに続き、日本では次のものがあります。
これらの解釈については、慎重になる必要があります。これらの条文を根拠にホームスクールは保証されていますよ、という働きかけがあった場合には、それに伴うことはなにか、なにを前提としているのかの共通認識を確認しあうべきです。
そのとき重要となる理解は「児童の権利に関する宣言」でしょう。なにを教育する内容とするべきか、は本質ではありません。また数々の支援や制度は最終的には親が決定しなければ実行することが難しいことばかりです。こども自身が選び、決定する権限が、こども個人に与えられているとはいえないのです。だからこそこどもの意見表明権が守られることが大切なのです。
日本には【不登校】という現象があります。不登校は選択ではありません。結果的に”そうなる”状況のことだと思います。けれども大切なことが確かにあります。不登校という状態にはいったとき、それはこどもの行動から始まるという点です。日本ではこれが、自分たちで考えるよりずっと「こどもの気持ちを大切にする」道につながります。制度的に適切だと判断された選択肢を提示され、手続きに乗っ取って、次に取るべき行動が指示され、それに同意するというプロセスではありません。我が子にとっての最善を考え続けます。それは苦悩であり、葛藤であり、自分自身の生き方を問うことでもあるでしょう。あるいは未知の可能性を見出す希望になるでしょう。そして、これまでにない大きな決断をする時が訪れるでしょう。自分たちにとっての幸福とはなにかを実感するのでしょう。
《こども中心》といわれていますが、なんであれ最終的な決定権は親に最大限にあります。親、保護者、周囲の大人たちはこどもの権利を護ることに自覚的になって行動を選ぶことで、こどもたちはその有する権利を行使することが可能になるのです。こどもたちとともに知り、学び、実践することになるのでしょう。
本を読みおえて
思いつきながら書きそびれたことがまだいくつかあると思います。追記するかもしれません。
1997年発行の書籍です。それでも内容は決して古くはありません。むしろ、今の日本の現状に最大の助言を与えてくれます。
ホームエデュケーション実践のQ&Aと、実践者による経験談、法律の話。どれも実践の手引きとして抜けのない内容です。日本ではどういったことにあてはめられるか、と考えつつ、単純にモデルとして、模範として丸ごと称賛して受け入れるのではなく、日本の良いところ、日本の制度、日本文化的になじむかたちなどと照らし合わせることで、丁寧に『日本のホームスクール』の在りかたに辿り着けるのではないか、と思っています。そのような論を今後も進めていきたいと思います。
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