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日本のホームスクーリング制度のゆくえ

 ホームスクーリング・センターkokageでは、「ホームスクーリング」「アンスクーリング」そして「アンブレラスクーリング」の3つをメインに解釈を示しています。(HP画像:まなびあい>ホームスクール・スタイル

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 これはアメリカのホームスクールについて書かれた本を基本としているのでこの3つの語句になっていますが、その内容は日本で実践されているホームスクール(ホームエデュケーション)の方々の声を聴き集めたなかからまとめたものです。まったく個人的な興味関心から生まれたもので「日本のホームスクール」を理解するための整理・分析です。わが家は分類されるとしたらアンスクーリングというスタイルに当てはまります。ホームスクーリング(ホームエデュケーション)を理解するにはなかなか時間がかかりました。もちろん、まだ足りないとは思いますが、考察してみたいと思います。

マガジン『一考:ホームスクール制度
関連note:
ホームスクール制度と社会的擁護
ホームスクール選択の自由と基本的人権


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HP画像:つなぎあい>日本のホームスクールの歴史 


【日本のホームスクールの歴史】

 公的な学校に通わず自宅でまなぶスタイルは古くから存在していましたが、おそらく日本で「ホームスクーリング」という語句を認識してはじめた家族は吉井家だろうと思っています。アメリカのホームスクーリング運動に学んでいます。のちに内容はアンスクーリングに近いとしながらも、聖書をまなぶという点においては厳密にはそうとは言えないかもしれないとも書かれています。聖書に殉じた心もちを構える暮らしを尊重するクリスチャンファミリーはアンスクーリング・ホームスクーリング・ホームエデュケーションそれぞれを活用しています。公的な学校に替わるチャーチスクールもありますね。もちろん学校に通うスタイルもあります。信仰の自由と教育を選ぶ自由を実践する生き方をしめしてくれています。
 ホームスクールであれ、キリスト教という元々は海の向こうから伝わった信仰と文化ではありますが、日本の土壌で育まれ、日本の文化思想と混じり合っているはずです。


【日本には日本のホームスクールが誕生している】

 そんな想いで日本のホームスクール家庭の声を眺めてきました。日本の教育制度もまた、Educationという文化と制度の導入から始まったとしても、それ以前にあった寺子屋や私塾などの教育と教育観の歴史、こどもを取り巻く環境とこども観の変容のなかに組み込まれています。それらを背景にした日本のホームスクーリング制度はどのようなものになるのか。想像がふくらみます。

 少し話が変わるようですが思い出話をひとつさせてください。我が家の靴選びのいっさいを任せていたシューフィッターさんのいる靴屋さんでのこと。店の奥さんとお話していて靴への情熱に私はこう返事をしたことがありました。「ドイツの靴のように、ですね」と。すると奥さんは少々呆れたように、また憤慨したようなそぶりで「ウチはドイツの靴は扱ってません。日本人の足にあった靴を提供したいんです!」というようなことをおっしゃいました。私にはその意味が読み取れず、会話はそこでなんとなく流れたように記憶しています。
 ドイツはこどもの足に関する非常に悲しい歴史があります。それで靴作りにたいそうなこだわりがあり、とりわけこどもの靴選びは非常に感性が高いと聞いています。ドイツはあらゆる面で哀しい歴史を繰り返さないように徹底してその歴史をちょっとでも肯定することが無い姿勢を持ち、その歴史を受容し、充分にまなび、研究し、発展し、現代に活かすという姿勢がうかがえます。そんなドイツのように「日本人の足にあった日本の靴ができるんですね」と言いたかったのですが、もしかすると靴屋の奥さんは当時のドイツの靴ブームと礼賛にうんざりしていたのかもしれませんね。
 ドイツの話をすると「でもドイツではホームスクールは禁止ですよ?ドイツ、好きなんですか?」なんて声が聴こえてきそうです。こどもへの教育により大人の思惑に操られた哀しい歴史を背負って、ドイツは徹底的にこどもを主体とした教育を国全体で真摯に取り組んでいると私は感じています。家庭がこどもの教育について国を頼れるのだと感じています。ホームスクールが登場する歴史背景には、その国の教育制度の崩壊が見られるといいます。教育制度が本当にこどもの為、ひいては市民の為になっている時代と国政のもとではホームスクールという形態が生じないのです。それはそうでしょう。本当にこどもを知り、理解し、その成長を手助けできる信頼のおける専門家がいたとしたら、誰しもそこに任せたいと思うでしょうし、敬意を払って、その実現に精いっぱいの協力をするでしょう。
 そういう意味ではホームスクールがあまりないことを市民に受け容れられている時代と国は良い傾向だと言えると思います。実際、教育制度が日本で開始された当初は、それまでは家柄の差でまなべなかったことが平等に受けることができ、それまで知り得なかった広い世界の知識をまなぶことができるようになったわけですから、こどもの人権がそれまでよりも高く尊重された証でもあったのです。しかし、今は状況が違います。今は権威の思惑が強くなりすぎて、こどもの人権が脅かされている事態です。そして、ホームスクールがまったく存在しない時代と国というのもありえないとも考えています。なぜなら、それが多様性だからです。オルタナティブといういつでも既存のなにかを越えた自由で未知で可能性のあるチャレンジという分野においてはホームスクールはいちだんと魅力のある暮らしです。
 ドイツ出身の大学の先生から「オルタナティブ教育は既存の公教育とは違ったまったく新しい教育。日本ではまだまだオルタナティブの意味が充分には理解されていない。そこから始めるといい」という提案をいただいたことがありました。「シュタイナーだって、誕生したそのときはオルタナティブ、あたらしいものだったんだ」ときいて、私の中でオルタナティブスクールの意味が腑に落ちたのでした。代替学校などではないんですね。


【ホームスクーリング制度整備に必要な3つの側面】


「不登校」の3つの要素
➀学校復帰/社会復帰
②休養・休息
③多様なまなび(オルタナティブ/多様な形態)

  この3つの要素それぞれにホームスクール(ホームエデュケーション)があります。①在宅学習、②デスクーリング、③ホームスクーリング(ホームエデュケーション)です。アンスクーリングは?となりますが、まだそこは未確定な印象です。ホームエデュケーションにはアンスクーリングと重なる思想があります。これらはどちらも「教える」「教師と生徒の上下関係」といった学校からまったく外れているからです。これがホームスクーリング制度を考えるうえで非常に重要な点になります。そして日本だからこそ可能性のある話でもあります。上記note『不登校の3つの要素』では不登校からのアプローチでしたが、ここではホームスクール(ホームエデュケーション)からのアプローチで進めていきます。ホームエデュケーションの語句が持つ意味にはふたつの側面があります。それについては『日本のホームスクールの歴史』を参照してください。

➀在宅学習者からのホームスクーリング制度

 これは最近では少しずつ知られてきている米国のホームスクーリング制度にあたります。実質的にはすでに日本でも一部が実現しています。
 日本の教育制度において「保護する子女に普通教育を受けさせる義務」があります。学校教育は普通教育としての制度です。その期間を9年間(小6年・中3年)としています。今のところ公的なものとして位置付けられています。ホームスクールやそのほかのオルタナティブ教育もまた普通教育とみなされます。ただし日本の学校教育制度は就学義務があり、一条校に在籍することになっています。そして病気療養や本人の意思を除いては基本的に留年を命じられることは無く、出席日数も成績評価も卒業要件にはなりません。形式卒業といわれますが、誰もがその学年を満たせば小中学校を卒業することができます。つまり学校に一日も通わず、在宅学習もしくはホームスクール(アンスクーリング・ホームスクーリング)をしていても小中学校を卒業することができるのです。
 在宅学習者にとって、現行の制度は学校でまなぶ教科を在宅そのほかの方法で学習をすることには障害は無いのですが、大きくたちはだかっているのが「高校進学」と「中学進学」だと考えられます。受験と内申制度です。内申評価の対象が「学校教育」に重点がおかれているからです。授業態度や教科学習(特別活動を含む。参照:『学校教育制度と教科科目』)という学校生活がそのままダイレクトに成績評価につながっています。学校生活はすなわち集団生活です。こどもを学校という教育施設に集めた時点で、集団教育が基盤となっていますから、集団でまなべる体制になるのは必至ですし、集団教育でこそ学習機会になる内容が「学習内容」として位置付けられます。逆に言えば少子化が進む地域・限界集落などのきわめて少人数の学校ではこの基盤にもとづいた集団教育の学習内容に合わせるために大変な苦労をしています。学校教育が集団であるために培われた集団教育内容の充実と成長の歴史が、教育の在り方は集団教育が本質的であるといった固定概念に定めてしまったのです。
 この「集団教育」や「集団」という部分になじめないこどもこそが在宅学習に向かうのではないでしょうか。学習カリキュラムに沿って教科書でまなぶことや、指導者(教員)から学び習うことには違和感を覚えない、むしろ好きだという子(個性)もここにいます。(昨今、登場したN高等学校はこの層がターゲットだといえますし、ホームスクール塾といった名称やコースを持つ民間学習塾などもこれに該当するでしょう。)


②休養・休息からのホームスクーリング制度

 ここには在宅学習へと向かう個性と、自由なまなびであるホームスクールに向かう個性の両方が混在しています。その選択をする前に、双方に必要なのがデスクーリングというプロセスです。前提として、休養と休息が必要な状態にいたるまでに既存の学校教育を受けていて、その集団教育・学校生活に疲弊した・しているという事実があります。そのためにおこる学校への疑問、集団教育への疑問を一度取り払うことが最重要な課題となります。ゼロベース思考と言い換えると伝わりやすいでしょうか。学校に行けなくなった原因の追究ではなく、その前の時点で固定観念・思い込みになっている常識という大前提を疑ってみるというプロセスです。実は日本人はとてもここに才能あふれているのではと思っています。禅(マインドフルネス)と道(道(みち)を極める。「〇〇道(どう)」という思想に長い歴史は、ふとした日常の根底に確かに流れているように感じます。すると「寺や山に籠る」姿や「修行」の姿を思い浮かべるかもしれません。これがちょっと横にそれると間違った指導者による強制された精神鍛錬につながってしまうので注意が必要です。みずから飛び込む世界として、これはあります。こうした考える時間・悩める時間・葛藤する時間を持つことの尊さを日本人は肌で知っているように思うのです。そこに臨むひとりの人間の姿として尊重する心を、深い部分で知っていて護ろうとするように感じます。アメリカでは、デスクーリングというプロセスが周知されているようです。私も実はこの単語を耳にしたのは本当に偶然でした。今から5,6年ほど前のことです。とあるお母さんからの「アンスクーリングに入る前にデスクーリングは?」というような質問だったと思います。はっきりとその単語を聞き取れないくらいでしたので、あとでいろいろと調べているうちに「このことか…」となったくらいです。というのも、デスクーリングという単語は知らなくても、そのプロセスは当然のようにおとずれるからです。たとえば「学校だけがすべてじゃない」「学校にいかなくてもいい」と考えてみる過程のことをいいます。これは通り過ぎることが不可欠なプロセス(過程)なんです。そのプロセスにある親と子の時間と尊厳を充分に保障する制度として求められていることで「ホームスクールを認めてほしい」「不登校を認めてほしい」「そっとしておいてほしい」という声につながっています。

③多様なまなび(オルタナティブ/多様な形態)からのホームスクーリング制度

 この点はホームスクーリングセンターkokageで分析説明していることです。ホームスクール(ホームエデュケーション)にも、日本の土壌に培われたホームスクーリング・アンスクーリングがあり、それぞれに制度として求めているであろうことに違いがあります。
 自由な探究と学習をすすめるホームスクールでは、既存の学習指導要領の学習カリキュラムに沿わず、さまざまな分野と分野を越境したカテゴリ、小中の教科学習にはない分野などひろがります。それらを学校教育の学年別カリキュラムに照らし合わせて、学年別にテストを設けてそれに合格することで学校教育を履修したものとするという制度は当てはまらないことでしょう。充分に独立できるキャリアを積む手段としての在学や資格という思想と制度のあるアメリカ社会と比べて、日本では学歴社会と一本道の年齢に対応したレールからはずれると途端に難しくなるシステムが障害になっています。ホームスクールというこどもひとりひとりの個性と成長段階に応じた環境作りには、とても理解が深いであろう日本の思想が、社会システムにてらしあわされた途端に破たんします。これは多くの学生が、学校生活から社会生活にはいるときに感じるリセットの必要性とも通じています。「学生気分では通じないよ」とか「即戦力」とかいうものです。ますます「学生のうちえに社会人としての一般常識を身につけさせるように」という風潮が強くなり、学生の本文であるまなびの時間が削られているとも言われています。そのような社会システムをまるごと変革するようことを求めるのが、ここにいるこどもたちではと思います。ですから現状では誰も未来予想はできないはずです。誰もいまだ成し得ていないのですから。ですがきっと多くの人が気づいているのではと思います。このままではそんな個性が日本から出ていってしまうばかりだ、と。その原因の根本に根付いているのが学校教育制度の現状維持である、と。


【ホームスクーリング制度は三方良しを目指す】

 この多面性のすべてを知り、理解し、みつめ、オールオッケーにするホームスクーリング制度をどうか編み出してください。そうしたら未来は変わっていないはずがありませんね。実現したら、どれだけだれもが過ごしやすく住みやすい国になっていることでしょうか。どれだけ安心して悩み、葛藤し、そして選び、選び直し、挑戦し、失敗し、どうあっても生きていていいと思える世界になっているでしょうか。
 どれだけの人が、すべての命が宝だということが真実だと知れるでしょうか。ーぬちどぅたから

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