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政治以前のずれれるわたしたちに

映画『熱のあとに』や最近の都知事選とかから生まれたの。

親しい人と安くはないランチを食べて果てにはチーズケーキで締める、そんな幸せ真っ只中にいるのになんだかどうしようもなくなりにっこりとした顔を表に作って適切な言葉とともに席を辞しトイレの個室に入って安心することについて。

これはお腹が弱いっていうのもあるんだと思う。
胃腸の強弱が性格の特性の強弱と相関することを毎週日曜日にちびまる子ちゃんはステレオタイプとして教えてくれたけれど、そんな偏見に対してある程度の真理性をおぼえる。

でも同時に小学生の頃床を掃除するために机をつっている間の轟音に好きな歌の口ずさみを隠し他の人に聴かれないようにしていたことも思い出した。

もともとそれぞれの身体には身体にあった音楽が流れているのかもしれない。
そしてそれはたまにどうしようもなく溢れようとするものなのかもしれない。
思い出してみると、歌ってしまうのはいつのまにかやってきたといったもので、避けることができないことばかりだから。

会話とはリズムのずれている身体同士でなんとかある程度だけ合わせることなんだと思う。
それぞれの身体のリズムを変えることなく最小公倍数的なリズムを刻むのを理想に想ったりはする。
けれど、最小公倍数があまりに大きいとき、つまり人数が多かったり波長の大きく異なるもの同士の場合は、ある程度の小さい最小公倍数になるように身体のリズムが無理に自発的に変わる時がある。

各々が少しリズムを合わせてみることによって起きうる気持ちの良い変化も理想とは別の極として強調すべきなのだろうけれど、変化がある上限を超えて気持ち良くないことにもなりうるのが今回話したいところ。
ある上限を超えると空気として漂うリズムに反抗して分裂するように、もともとの自分の身体にあった音楽が身体の中を初めは蠢きそして次第に轟き、身体から出ようとしてくる。
そして轟音に耐えきれなくなって、席を立ってしまうのかもしれない。

そういえば最初にあげていた胃腸の弱さのような体質的な遍歴ももしかすると相手のノリに合わせられないことにつながるのかも。
体質的なずれはコミュニケーションのずれを生む。ずれが反復されると、ずれ落ちたものは相互作用としてのずれを変形し内面化し事実として歴史として固定化し形容詞的になる。
例えばエネルギーがないといった原因帰属をいつのまにかしていたりする。

まあメンヘラ的な振る舞いをしたりするまえの時ってお腹が空いているか寝不足なのかが多い気もするから、エネルギーがないみたいな説明も適用しやすくて良き哉って思えたりもする。

ただ心理過程での原因帰属はいつだって遡行であって正しさはわからないのは言い残したくなること。やっぱり正しさは機能にいつも遅れる。
従属変数を独立変数にしたがるのは因果を逆流するのは人間らしさなんて言っている人もいるし、それ自体必要なことなのだろうけれど。

帰省して久しぶりの一家団欒。
家族の各々がスマホから異なる効果音、声、セールスを流していて直方的なリビングは人工のジャングルになる。
そんな時間から端末から垂直的にもたらされる人工なあれこれによって私たちのリズムが各々の形に固められていることがわかった。
これはSNSのタイムラインや返信などが肌理のないジャングルと化して味がしないのと並行しているのだろう。
端末の画面から抜け出しても私たちの振る舞いのあらゆるほとんどが右ならえの固められた意味として無意味に無味になっている。
無味なジャングルを五月蝿く感じる時もあればこれはこれでまあええんかねってなることもある。
新自由的な自閉と限りなく近いけれど、自閉は大事な過程だし、今は少なくとも同じ場所にゐる。

ええんかなって思いながらもやっぱなんかあれやなって思いはじめたりする。それは倫理的な善き哉善き也によって考えるというよりもたまに襲ってくる強烈な味気なさに対する生理的な拒絶であり、切実なものかもしれない。
それは身体を売りたくなるみたいなのと近い。


そういえば今たくさん売れている本の中には、自分以外にも味気なさを感じ、どう抗うかウーンウーンと唸っているのも多い。
そんななかの一つに60秒見つめ合うだけという提案が映画の中にあった。
残虐な戦争でも愛を疑った恋愛でも効くのかもしれない、そんな予感がサイドブレーキともに宙吊りになる。

見つめ合うってなんなんだろう。
目線が外れるという安定に抗い、合わせ続けるという不安定を安定させてみる。
各々身体のリズムがずれていることを隠さずにリズムを合わせるのではなくリズムを擬似的に止めてみる。
擬似的な静止があることによってお互いのまばたきや黒目などぶれなどの小さい動きがわかりやすくなる。
動いていることが一瞬わかるすぐ忘れるまた動きに気づく、を繰り返す。
それだけなのにあらゆる衝動的な解と理性的な解の両方を凌駕するかもしれないと思えてしまう、どうしてだかどうしようもなく。

好きな音楽を想像するとき頭ではなく身体に鳴っている。いつも音楽は概念というよりも感覚であって、電気というよりも流体であり、流体の色や粘性は曲調によって変化する。
人やものが発するすべてはリズムとなっているけれど、特に音楽は心臓のあたりに近い。
だからこそ少し顔を赤らめながら好きな音楽を教え合ったりするのかもしれない。わたしのリズムが相手の身体を流れて欲しいとほんの少し思いながら。

ただ大体の場合教えてみた後の反応を受けてどうしようもなくずれていることに気づいて悲しくなったり、またなによりもずれることを気にする神経症に悲しくなりながら、以前よりも素知らぬ顔を表に整え直してまた好きな音楽を教え合ったりする。

個室に駆け込みイヤホンで音楽を流し正しい会話によって乱されたリズムを死ぬもの狂いで元に戻さないといけないような日常だからこそ、歌っちゃいけない曲が減ってきたようで本当は増えているような日常だからこそ、その気持ちは強くなる。
いつだってそれは逆説だ。ずれるほどずれを合わせたくなるし認めてもらいたくなる、そんないじらしさを愛みたいなものの原理として認める。

でもそんな健気さは利用されてばかりで。
何かを見つめることも見つめられることもなく、空いた穴に埋まるものを高速で提供され、新しいようで同じところをぐるぐる回ることになり、固いだけの無意味な意味の無味になってばかりな気もする。

その悲しさは言葉が嫌になってしまうことや時を止めたくなるのと近い。
本当はもっとゆっくりとまばたきをしてまばたきの間を感じていたい。
もしくは限界まで目を開け続けて輪郭を飛ばして光をみたい。

それよりも相手の目を見ていたい。
少しの動きがあったかもしれない。
少し動いていたのかもしれない。

それらはすべてサイドブレーキを必要とする。
純潔も迷いも認めすぎずに目眩を認める。
政治以前に、恋だとか愛だとか以前に。

参考
 映画『熱のあとに』
 動物に「心」は必要か 渡辺茂
 言語の本質 今井むつみ 秋田喜美
 センスの哲学 意味のない無意味 千葉雅也
 精神の生態学へ グレゴリー・ベイトソン
 享楽社会論 松本卓士
 やってくる 郡司ペギオ幸夫
 めのう NUUAMM
 ミーツ・ザ・ワールド 金原ひとみ
 メンヘラの実用的な扱い方 紫藤ナナ
 武田砂鉄×江國香織 【アシタノカレッジ】
 ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと 村上靖彦
 ウィステリアと三人の女たち 川上未映子
 宮台真司のどこかの発言
 利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学 近内悠太
 なぜ働いていると本を読めなくなるのか 三宅香帆
 みっくしゅじゅーちゅ 大森靖子
 人魚 羊文学


P.S.
今都知事選が盛り上がっている。
政治的なことのために交わされる言葉を見る機会が増える。
政治が必要なことをもちろん知ってはいるけれど、これが正しいだとか善だとかの言葉に触れると、なんだかとても大事なことを忘れているように思えてくる。

正しく思う分にはいいけれど正しさは外にはなく、善は悪は必要とされた結果の色に過ぎない。
大きければ大きいほど色のついた無機物からはただ穴を埋めたいだけなのがより強く伝わってくる、なんて言いたくなる。
そんなこと言われたくないからみんな顔を言葉を紙にするそして紙になる。

居酒屋に投げれない、どうしてそんなことを悩んでいられるのかという寂しさや怒りを、せめて空に飛ばしたい。
わたしたちは紙であるから舞える。
雨に濡れて落ちる、太陽の熱で乾く、気づくと知らない場所にいる、知らない紙と出会う、またどこかへ舞っていく。

言葉が死んでいるみたいに感じてしまう時がもっとも悲しい。
言葉を誰か発してほしいという感覚がたぶんこの文章以前の穴になっている。
みんなもっと風邪をひいて寝込んだほうがいいと思う、どうしようもなく身体が一つだということ、そことふわふわと付き添わないといけないということ、付き添ってきたのだということを教えてくれる。半可逆的に自閉的になれる。
そんなことを忘れて綺麗になり過ぎた次元を両手を使って混ぜてしまいたい。

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