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ニャー ( 〈猫〉の国、〈猫〉の時代。いつのまにか〈猫〉になっていたらしいのだけれど猫じゃない。ミームを過ぎたようでやっぱり〈猫〉。着せ替えされても結局〈猫〉。keep it キラキラ keep it つるとんたん keep it 〈猫〉スクロールしていく〈猫〉ノイキャンする〈猫〉開闢しても〈猫〉するする滑っていく〈猫〉ずっと滑っていく〈猫〉。 〈猫〉になれないから口角上げて毛繕いする、なんかわかってしまってて、でもわかっても〈猫〉になりきれないし〈猫〉にしかなれないんだな
ぽつんと一軒家やダーツの旅みたいなテレビに映る朗らかに笑う路面店のおばちゃんを見るとこの上なく羨ましく思う。 珍しい特急電車を撮りにプラットフォームを走り回る男の子、ダンスの強豪校で休日返上で打ち込むポニーテールの女子高生を、画面やメガネ越しに見て、あんなふうに笑っていた時代があった、みたいにありきたりに懐かしく思うこともあるけれど、おばちゃんやおじちゃんの笑顔を見る時はより一層身に詰まされ、差し迫った観照を覚える。 もちろんあのおばちゃんであっても本当に身体が動かなくな
ぱおんに捧げる華なくて 口腔はア[a]に至らなくて 目腔はェ[Ə]のままで 代わりckSの代わりの枡劃くまでで 発声練習もさくらんぼ結びもえんえんえーんえーーんったっつったってね 引き締まる気がするから 摩擦に飽きたから 打撃が必要だから いざという時に左前脚くんや右後脚くんが出てきてくれる気がするから 紙を噛むのに飽きたから 出家はトキメキのために過ぎないのだから キックボクシングはじめました オイコスとしらすくるみが欲しいです バナナは匂いが苦手です 参考 映画 百円
「誰かが倒れてると思ったけどそれは私だった」は頻度こそ少ないけれどやってくる。一緒にやってくるのは、水辺の唄を、緑の油絵を、青い目がほしい人をどこかに描いていたことだとか。 何かを思い出すときそれが近いのか遠いのかがいつも分からない。眠りから起き出すのは、布団からやをら這い出すのは、無理やりになのか自然になのか区別がつかない。 無理やりを嫌った時間が長くなるにつれて、無理やりを嫌うことを嫌うことも少なくなってきた。というよりも嫌いが薄くなってきた。基本的に嫌うことは間違い
ここ最近、認知言語学、学習の研究者の今井むつみの本を読んでいる。 今井むつみの本や論文を読んでいると、「スキーマ」という言葉が何度も登場する。たとえば、『学力喪失』によると、スキーマとは、経験から導出した暗黙の知識を指すらしい。(52p) 今井むつみの著者に限らず言語学周りの本を読んでいるとこのスキーマや類似の概念にたくさん出会う。 たとえばスキーマと似た概念としてフレームとスクリプトという用語もある。認知言語学分野の鍋島弘治朗の『メタファーと身体性』の第7章において
ツッコまれて赦されたい 『オタク文化とフェミニズム』(田中東子)を読んでいる中で、「男性たちは女性を消費することに、戸惑いを覚えることはないのだろうか?」(215-216)という言葉を見つけた。 そのとき思い出したのは、「粛清!!ロリ神レクイエム☆」(しぐれうい)という楽曲だった。 「粛清!! ロリ神レクイエム☆」はイラストレーターで趣味としてVtuberを始めたしぐれういが内輪ノリで作った曲が一億回以上の再生を生み出した驚異的な作品だ。 どうしてこんなにも再生され
私は楽しい感覚を持っている。 私は楽しい感覚を持っていた。 私はたぶん日常的感覚を持っている。 私はたぶん日常的感覚を持っていた。 私はきつねうどんとたぬきうどんを区別できない。 私はきつねうどんとたぬきうどんを区別できなかった。 私はタバコを吸っている。 私はタバコを吸っていた。 私はXXXをしている。 私はXXXをしていた。 私がXXXな性癖を持っていると書いたとして、 本当にXXXな性癖を持っているというふうに思われるかどうかは、相手の想像をある程度予想したう
ただ見たものを思い出しているかのように 時間的なイメージとして ゲップ。 松屋は味噌汁付きで安いから 「それはお構いなくってよ」 歌舞伎町タワー前段差寝ているおばさん イタイ痛い本当に苦しいノイキャン おばちゃんのいるコインランドリー幻覚のは幻覚にしたがるの お大事にねと去っていく警備の人たち くっさい髪 献血NGな薬 瓶でのアルコール投与 本当に痛いよね 出産はクールジャパン 生まれる前の臭い 臭いよね 手頃な金属バット ランジャタイの顔出戻らず 裏から持ってこられた
全てのものは原理的に移り変わりうる。 その原理すら移り変わりうる。 そんなことはみんな頭に入っている。 日本人は特にたぶん他の国の人よりも身体でわかっている人が多い。 だからこの動画の仮説と反論も、 理想や現実の期間限定性、つまり、硬直性というか粘り気の程度を問う話であることは内容に限らず原理的に決まっている。 そのうえでの話。 東浩紀と落合陽一は未来はどんな社会になるかを話す中で、お互いの主張を認めながらも、 東浩紀は人間の影響を無視できないといい、 落合陽一は非人間
さきほど家族旅行が終わった。 家族から解放されたことで、離れられたことからの安堵感とともに寂しさが少しだけ身体に残っている。 そのままビールを口に含み、枝豆をつまみながらこの文章を書く。 いつもと違い普通の日記というものをただの日々の振り返りと呼べるようなものを書きたくなった。これまでの自分の文章はそのような普通の文章がなかったように思う。 それは自分の嗜好ゆえにポップなもの、つまり、なんとなく目で追いたくなってしまうリズムがなぜかあるような文章を書きたいと思ってきたからだ
女的表象、動物感。 罪悪感溢れるけれど罪悪切り離した蹌踉めきへ。しれっと隠れるおねむの時間に。 タバコすら忘れて鍵かけず抜け出しなけなしの祖母の一万円握って全家へ お釣りは9900となんだっけ豪胆さ?いや惨めさ忘却欲しさのウィンストンの似つかわしさ?🔰の方が安上がりで良かった? 寄生贈与過多私たちのほとんどは慣性のままに学べなくなった言葉を吐かなくなった。 煙だけが瞬くばかりで、私たちは眩暈を否認した。 虫過激なソフトタッチのまま追い出す私たち。寄生虫抜け出す徒歩15
嘘ヲ吐クナヨ問われた儘に日頃の表情を鏡映るを視るかの様思ひ出だし何だか嘘を吐いて居る気したけれど實は胃熱ぽく目少し乾くに重ね何よりただ頭冷やりとだけ 誰かと云うだけの誰か神妙な面持ちで如何にも殊勝なこと云う素振り少なくとも其れ誰かにとって大事な何かを訊かれた場合であれ唖々儘よ其れが其れ何れが阿礼等と答える程度何とかすけれど實のところ合ったかもしれぬ否阿礼いや荒れが・・・自惚判らぬものだな繰還し畢竟紫煙より眉間ばかり熱ぽく頭やはり冷やりのまま両目擦れたまま胃中心半回転し点鼻薬遠
そういえばカウンセリングを受け始めてからもう四年近く経っている。 その間おもに自分の心を守るために自分や世界について知るべきだと対処すべきだと感じていたことのほとんどを学んだり試してきた感覚がある。 特にここ半年話したり書いたりしたことを振り返ると、同じようなことばかりを感じ悩みそして答えてきたことがわかる。 そのように同じような自分ばかりに出会うからか、ある種の安心感やナルシシズムや嫌気が混じるとともに、少しずつ味気なく感じることが増えてきた。 今の自分には強い粘り気を感じ
BAD入る往復の恍惚すなはち☺︎。 駅員さん無機を脇に抱えるは赤色かもしれない哉いやいや橙かもしれないのをメッタメタィにパッタパッタィに振ってしまいたいのはしんやさんのデジャヴで意味が負けていく清々で言葉が足りない、そんなアルコールきらきらは秩序に守られていく。 お茶割り紅茶の煙が襞超えて溶けて虫になる手前でこのままにこそあれと願えど、願えどのどが想起するあるネガティヴを超える何かを掴んでしまいたいはやはりぬ 言葉いつも遅れに遅れてこれは遅れぬと表現するに如かずそれすら足
親しい人と安くはないランチを食べて果てにはチーズケーキで締める、そんな幸せ真っ只中にいるのになんだかどうしようもなくなりにっこりとした顔を表に作って適切な言葉とともに席を辞しトイレの個室に入って安心することについて。 お腹が弱いっていうのもあるんだと思う。 胃腸の強弱が人の特性の強弱と相関することをちびまる子ちゃんはステレオタイプとして教えてくれたけれど、そんな偏見に対してある程度の真理性をおぼえる。 そういえば、小学生の頃は床を掃除するために机をつっている間の轟音に好き
誠実すぎたんだと思う 誠実でいれるいれないの予想を立てその予想の立てにくさも気にするところとか 異常だったんだと思う 自分や周りの普通さを踏まえながらその普通さの観察の仕方だとか わたしの言葉って貫通していくようなものだと思う 別に過激なことを考えていないんだけれど たぶん出しちゃいけないことばかりで でもたまに少し漏れてる 別に頭の回転が速いわけでもないしぼんやりしてる 大事なことってぼんやりしないとわかんないから こういうところが子どもすぎるんだと思う 思ってたよりも