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理由のない世界で

就活をしていると自分のことを知ることになる。

志望度が高くて相当準備をしてエントリシートだした企業が二つあった。ひとつは面接まで進み、もうひとつは面接まで進まなかった。

準備しなかった企業はともかく準備をした企業で落ちるのはショックだし、次受けるときのためにも何が違ったんだろうって考えていた。

どちらも人の顔が見えるようなそれぞれの人を大事にする企業だと思うがそれでも大きな違いがあった。

落ちた方は挑戦を推奨する風土だが、通った方は変化は必要だからしていくが特別挑戦を推奨していない。

とても納得した。
日常的に感じていることを思い出した。


話通じないな、
居場所がないな、って時。

できないことを前にして、できるようにする以外の選択肢がない人、待つことができない人、優秀ってされてそうな人、体育会系であり続けてきた人、正しさを疑わない人、自己コントロール感覚が高い人を前にすると、
無力感だったり疎外感を感じる。
そういう人の前の場合ある種自分を作って話す必要があって、ニコニコしながら適切にリアクションする。

逆に心理士とかの精神医学を学んだ人や、
文学や現代アートや音楽などの芸術や物語に触れてきた人や、東洋思想を学んできた人、バーで働いたりなどでたくさんの人と話してきた人を相手にする場合は身構えない。

鬱っぽくなったことがある人、芸術に触れすぎた人、精神医学や現代思想などの論理で取り扱えないものを扱う学問を学んだ人などにもわかる感覚だと思う。


改めて書類選考が通った企業と通らなかった企業を比べてみると、
通ったところは精神医学や東洋思想に対する考えが深くて年を取った人も経営陣にいて、
通らなかったところはポップカルチャーよりグローバルリーダーより西洋思想よりで経営陣が若かった。(優秀な人が多いNPO、外資企業、ベンチャー、ディズニーなどのエンタメ企業より)

どちらもホットなタイプだけど、自分にはウェットなタイプよりもドライなタイプの方が合っているとも言えるかもしれない。

本当に全くどうしようもできないという感覚を知っているかどうかや、積み木を前にした時の気持ちの持ち方をどう持つかか合う合わないに関係しているように思う。


積み木があるのを想像してください。
ものごとを積み木として捉えていますか。
積み木として見えているなら、
必死で高く組み立てますか。
積み木を小さくしていきますか。
積み木を維持していきますか。
同じような積み木を隣に組み立ててみますか。

積み木は遊びで組み立てますか、目的を持って組み立てていますか。その両方ですか。

崩れる瞬間を予想していますか。

積み木が崩れた時を想像してみて。怖いですか、嬉しいですか。
仕方ないと思って必死に受け止めますか、必死で抵抗しますか。
今組みあがっている積み木を喜んでますか、憎んでいますか。


たとえば死にたいや鬱などで検索してみましょう。
生きる理由がないみたいな言葉に簡単に行きつきます。

あなたはそれ聞いてどう思いますか。

私の場合、何を当たり前なことを言っているんだろうとまず思います。
そのうえで言葉通り受け取るだけじゃダメだとも。


ある程度まで勉強するとわかることは理由なんてないことです。
〇〇だからって言葉にさらにどうしてかを考えることを繰り返すとどこかで〇〇だから!って意固地にならないといけなくなります。理由の理由の理由・・・は無限に続くもので追い切ることはできないのですから。

もちろん私が生きている理由もありません。
それどころか自然法則ですら理由はありません。
観察して分かったことをうまく変換したものです。
明日ボールを投げたら放物線を描いて天へ上がっていくかもしれないですし。

理由がない論者だ!なんて目くじらを立てないでくださいね。理由がないことはただ中立的な話であって理由がないから価値が貶められることはありません。

だってどれも理由がないのですから。

どんぐりの背比べということです。
別に50歩100歩だからといって100歩の方がすごそうで便利だから選ぶということもできるわけです。
ただ理由がないことによって一つの考えが導入されます。
暫定っていう感じです。
ただ暫定一位のものを正しいと思うようにしてこれまでも生きてきたしこれからも生きていくというだけの話です。


かふかふかふか(
猿田彦で隣に座ったヒトが『14歳の社会学』を読んでいる姿が素敵すぎたから久しぶりに読んでいたんよ。たしかヒトは社会と世界の両方に包まれているってとらえていたんよね。ヒトと違って低能な動物は世界だけで社会がないって捉えているみたい。孤独にゲームなんかしてるヒトもいるけど、周りにヒトもいなければ、周りで蚊が飛んでいても気づかないみたいだよね。そんなヒトがほかのヒトや自然を愛するわけがないよね。もうちょっと匂いを嗅ぐとかしてたらいいのに。ヒトの鼻ってほら地面から離れて高いから世界からも遠くなっちゃってさ。)


タバコを吸っている。吸いたくなったから。どうしてって、昨日タバコを吸っていたから。

スタバでソイラテを頼んだ。飲みたくなったから。どうしてって、昔っから豆乳を飲んでいたから。

まだあの人が好きなんだけど、どうしてって聞かれても、好きだから好きしかなくないって言われても冷めるよね。顔ってことにしとく?(笑)顔だよ、結局顔でしょ(笑)。

私が〇〇という企業を志望したのは好きだったから。どうしてって、人を大事にする企業だったから。どうしてって、人を大事にする企業じゃないといられないから。どうしてって、うーんなんとなく。

貯金をしているんだ。無駄遣いしたくないから。なんかわざわざ無駄遣いするのっていやじゃない。あなたはいやじゃないんだ。俺はいやだな。

いつからどんな感じでこう思うようになったんだっけ。


 内臓諸行無常慣れない未来知らん朝 
 貯金思想膿漏武装異論な色
 未だ無所属ドリーマー
 早く気づいて
 スリルスリルスリルするりするりするりするりするり流行は空虚
 回れ回れ回れ回れれ回れれ新時代の奴隷
 歌わされる誰でもいい
 ボカロ風人形を使い捨てて病んでしまう病んでしまうなれんかった?自分じゃダメだった?
 少女よ仮面を切り裂け

 (METAMUSE 『メタメメント』より引用)


死ぬ時には笑顔で周りの家族に見送られたいです。
それが生きる理由です。というより生きる目的か。

生きているうちに北欧に行きたい。それができたらもう何でもいいかも。

一番美しい自分のままでいたい。それ以上に生きてる意味ない。

生きる理由?そんなこと言われても困るよ。死ななかっただけだよ。周りの人が生きてるしさ、死ぬ理由も特別ないじゃない。


そもそも意味って何か?

価値を感じること、理由があること。
みたいなふたつのものが混合されている気がして。

理由はないのに理由を無意識に作ってしまう。
価値は生理的に感じてしまうものだけどその中に理由がないのに感じるものと理由があるから感じるものがある。

この混合が話をややこしくさせている気がする。


生きる意味がないっていうのは、
生きる論理的な理由がないみたいなことを大事に捉えるんじゃなくって生きる価値を感じていないというふうに置き換えたり、
生きることはなんとなくできてきたけど理由あるかないか関係なくなんとなく生理的に気持ち良くない違和感があるというふうに置き換えた方がいいんじゃないかなって。

生きる意味に限らず〇〇で根拠がないからダメだとか言う人が多いけど、だからなんなん?
目の前のものが自分自身が嫌いだみたいに言いかえられたらもっといいのに。次に嫌いになってしまうのはどのような状況なのかとか考えられるし。

それに変な理由を使わなくても人が傷ついているのをみたらそれなりに人は動く。
何かを壊すのとまだましな物語を作ることはセットにして考えないとあんまり意味がないんよ。
もちろんまだましな物語を作ることが本当に難しいんだけど。だって今苦しいんだとしたら周りにクソな物語ばっかりがあるってことだと思うし。


世界(もの)自体を積み木のように捉えること、世界の捉え方(こと)自体を積み木のように捉えること。
積み木のようなバラバラのものか、ビーバーの家のようにもうちょっとドロドロして混じり合うようなものかはどっちでもいい。
どちらにせよ積み上げていくもの、崩れてしまうものとして想像してみてほしい。

積み木はくっつくものは前にくっついたものと近いものが比較的つきやすい。ある程度のラインまで積み上がったもの崩れにくくなる。という性質を持つ。
つまり、世界が中毒症状ってこと。しかも基礎がばらばらで不安定な。


過冷却の水滴は不安定な状態であり、何かの刺激でたちまち氷になる。例えば、それは何かの物質に触れることでもよい。このように、過冷却水が氷になるきっかけとなる物質を氷晶核という。氷晶核となりうるものは、細かい土の粒子、ゴビ砂漠などから飛来する黄砂、細かい火山灰などである。(中略)氷晶のまわりの不安定な過冷却の水滴は蒸発し(中略)、その水蒸気は氷晶のまわりに昇華して氷になる。こうして、氷の結晶はまわりの水滴から供給される水蒸気によってどんどんと成長する。(下画像のサイトより引用)

雨の成因 山賀進 https://www.s-yamaga.jp/nanimono/taikitoumi/amenoseiin.htm

理化学研究所(理研)脳神経科学研究センター神経細胞動態研究チームの武藤悦子上級研究員、鮎川理恵テクニカルスタッフ、中央大学理工学部生命科学科の上村慎治教授、今井洋助教(研究当時)らの国際共同研究グループは、「微小管」の形成(核生成[1])には、初めにタンパク質チューブリンが数個つながった直線状のオリゴマーが作られる必要があることを発見しました。

(引用元:微小管が生まれる分子メカニズムを解明-ごく少数の直線状オリゴマーだけが微小管になる- https://www.riken.jp/press/2021/20210208_1/index.html)


ものごとの動機のほとんどは習慣によって説明がつく。
惰性・慣性・中毒故にってこと。

そのうえで中毒構造がどのようにして生まれたのかが知りたくなる。
凝結するタイミング、伸長する起点と、その周りの環境について。
そればっかりが本当に知りたいのにあまりにも偶然的すぎて、一回限りのことばっかりで。偶然の中からある傾向を持って選ばれるみたいなことしかわからない。


そんな劇的なことなんだとしたら、劇的なことと劇的じゃないことってどう違うの?原体験と原体験じゃないものってどう違うの?
――恣意的なんじゃない?物語に便利に使いやすいのが原体験で、使いにくいのが原体験じゃないってこと。

どうして原体験だとか、わかりやすい物語だとかそういうの使うの?それがそもそもよくないんじゃない?
――わからないけど、わかりやすいほうが納得できて、納得できたら、ほら、なんかいいことあるんだよ。精神分析とかって症状の原因が説明できることがある種の治療効果を生んでいたってことだと思うし。分析つながりで自己分析もそんなもんなんじゃない?便利な道具なんよ。便利だからって利用されてしまうからって悪いものじゃないよ。道具って良いも悪いもないでしょ。


映画を見ていると、DTMソフトを思い浮かべる。
特にゴダールの映画なんて特に。

DTM

どうしてこのシーンとこのシーンを、このシーンとこの音をつなげたのだろうって考える。

作り手には人生がある。
生まれてからこれまでの長い時間と生み出す一瞬という二つの平面がある。
その平面上のそれぞれがDTMとしてあって、その二つは電波と磁波の関係のようなものだ。

そのうえで、何がいいきっかけだったのかということが気になってくる。
もちろんわかりようがないし、彼の生まれなのか環境なのか考えてみたところで、両方なのが結論で。

けど、なんだかうまく説明したいから過去の時間にあたるDTMを取り出して特徴的なところを探そうとして、きっかけはなんですか?みたいなインタビューをしたくなる。

社会起業家が好きな原体験みたいなもの。
理由として説明する場合が多いけど、本当はりゆうじゃなくて物語の。物語を聞くと納得できちゃうし、便利。そのうちインタビュー慣れしたみたいにすらすらと理由がいえるようになる。そしていつのまにか本当に物語が理由に思えてくる。自動車学校の職員のように話し方が節だつ。


タバコの好みってある?、あんまないかな、カレーの後ってミント系のが吸いたくなるかも、へー、すっきりするし、もっと重たいの吸いたくならん?、えー、その合わせなんか気持ち悪くなるわ、そういやミントってカレーにはラッキョウ合わせたくなる感じか、そうそうそれならなんかよさそう


(お酒も出すようなある喫茶店にて)
あんた就活中なんだって。
なんとか分析ってやつやってんでしょ。
それで急いで診断テストみたいなん受けたり、これまで人生のグラフみたいなものを書いたりとか。それなりには知ってる、一度は経験あるし。あー、別にそれに対して賛成だとか反対だとかそういったのじゃないよ。

まあこれからの習慣?ようなのを考えるってのはなんとなくわかるよね。昔の欲望からこれからの欲望を考えるみたいなのもまあそれっぽい答えよね。難しい言い回しだと。

でも、毎日どころか毎秒ごとに自分って違うわけで。何十日ってたてば細胞すべてが入れ替わるなんていうしさ。じゃあ何が自己っていうやつなのって思ったりしない?私はそうだった。
全部流れの中にあるみたいなのも考えるよね(笑)
でもさ、細胞すべてが入れ替わったところで同じところにほくろはあるし、鼻はひくいし、目は小さいし、歯並びは特別よくないし。
そういう醜いところって変わらないんだよね。

私はそれが本当に嫌で嫌で仕方なくって、雑誌を何冊も読んでメイク研究してみたりしたんだけどやっぱり嫌なところは変わらないしで、一度少し借金して鼻をほんの少し高くしたの。
受けてみて確かに高くなったってのはわかるんだけどさ。なんかアガらなくて。やっぱ自分の鼻って本当に主張強いなって、田舎出みたいだって。その時もういっかってなったんだよね、この鼻のためにかかったお金を考えてもう一回同じだけ稼いで使うのってなんか無理だなって。疲れたし。

何が言いたいかって、就活とかは知んないけど、要はあんたのどこが一番重たいかってこと、どこが一番変わってなさそうかってことなんじゃないの。それか、あんたが変わることによってあんたの近くの何が変わってなかったかってこと。だってそれもあんたみたいなもんなんだから。
とりあえずあんたはその身に着けている眼鏡をアピールしておけばいいんじゃない。ころころ変わっているけど同じ眼鏡のように見えるし、あんたの心臓って眼鏡でしょ。それがないとあんたって誰かわからないからさ。てかあんたの名前すら覚えてないし。はー、その眼鏡が嫌なの?似合ってるのに。自分で選んだことないって?今度からは自分で選んでみれば?だっさい服を着るの嫌なんだったら違う服を着てみろよ。


(21歳のクリスマス)
靴下を裏返すと積み木があって
積み木を説明する積み木があって
積み木を思う積み木があって
積み木の一部を妬む積み木があって
積み木を壊そうとする積み木があったり
積み木の深くにある積み木が硬くて

積み木の説明に積み木は忙しいから
積み木を包む靴下はどんどん大きくなっていくのに
いつだって懐中電灯しか持ってないからほんの少しの積み木しか見れないから
重たいところほど光を吸収してよく見えないし
だから重たすぎないところを頑張って照らしてスケッチしてみるの
そうすると重たいところも輪郭がぼんやり浮かんできて
こんな感じ?みたいな


はやらせたいのがあって。中毒って言葉を徹底的に使いたくってさ。
禁酒中毒、筋トレ中毒、野菜中毒、成長中毒、死にたみ中毒、マスク警察中毒、健康食品中毒、バイブ中毒、油中毒、肉中毒、大企業中毒、清潔中毒、怒鳴り中毒、恋愛中毒、シティポップ中毒とかなんでもいいんだけど。

カラスがごみをあさっていてもまあカラスだから仕方ないよねって思うでしょ。あれとおんなじで怒鳴っている人を見てもかわいいって思えるかもしれないでしょ。
だって、中毒って聞くと動物みたいでかわいいじゃん。絵本って動物ばっかなんだよ。覚えてない?


君たちはどう生きるかって、
親からもらった服をいつしか嫌になって脱いで色んな服を着てみて疲れてそれから自分の肌に合う服を選んだら親に着せてもらった服とも少し近いかも。みたいな話だったよね。あれ違った?うろ覚えだから。あんたの記憶もあってるかしらないけど。

思い出すのって時間がかかるから、物語には時間が必要だし、こういう話って老いてからしかわからないんだろうね。

何にせよ、意味がなく伸びていくようなのって、無機とも有機ともなくって、なんかバカっぽくってかわいくてなんか好きで。
なんだか絵本みたいじゃない。
にょきにょきにょっきって感じ。

このかわいさみたいなものを感じられるかどうかが今もっとも大事なことなんじゃないかなって思ってる。
理由がないのになんであるの?が溢れかえってる世界で、理由がないのにたまたまあるなんていじらしいんだろうって思えるか。
自分がカワイイとかいじらしいとかって思えてるのはたぶんたまたま江國香織を読んできたから。
逆に言えばたまたま感じられていない人もいる。
その気持ちも痛いほどわかる。



(補足)哲学的背景(興味のない人は飛ばしてください)

千葉雅也はヒュームードゥルーズとカンタン・メイヤスーの議論を使って、積み木的な世界の認識論を積み木的な世界の存在論と接続させていた記憶があるし、また、グレゴリー・ベイトソンは精神についての世界を積み木的に考えていながら、積み木の周りにあるランダムなものからある志向性をもって選ばれるという二段階をもって、精神システムが伸縮すると考えている。

それを混ぜ合わせると、
ものの世界とものの世界を表現する世界(こと①)、ことを説明しようとする世界(こと②)のどれもが積み木的な世界観が出来上がると考え、私はこれを採用している。

特にグレゴリー・ベイトソンもカトリーヌ・マラブーも、システムが予測しながらも裏切られながら伸長したり破壊されたりするみたいなシステム観で共通しています。そのことを踏まえると、概ね似たものがよりくっつきやすい傾向、より長いものほど長く続きやすいみたいな振る舞いがただ理由なくある。みたいに捉えるのが妥当なのではないかと現状と捉えています。

そのうえで、そういうただ意味なく伸びていくようなシステムを連動して説明しようするような神経分析的なシステムがそれが意味や理由を考えるときに臨床上参考になってきたということなのだととらえています。たとえば、積み木を壊そうとする積み木は死の欲動に駆られた行動に中毒になる主体を表現できているように思います。
斎藤環さんが提唱していた、グレゴリー・ベイトソン的システムとラカン的システムのカップリングは理由のない世界を前にして理由なく説明しようとする人間の構造を示していると思います。
人間に対する失望と共に成田悠介などの人間の主観を乗り越えた客観的な世界観を打ち出す人が増えてきているように思いますが、その言論の成立、増減、需要を含めて、人間視点に相当する積み木が必要だと思います。
(注意:斎藤環のいうシステムは、グレゴリー・ベイトソンのシステム論をマトゥラーナのオートポイエーシス的なシステムとしてとらえ直したものです。)

また、DTMについて書いた部分は、『センスの哲学』(千葉雅也)からとっています。
知覚をリズムやノリに置き換えたものですが、パースの3分類を使って捉え直してみてもいいかもしれません。

追記 20240508
理由の底が抜けている世界で、理由を感じるとしたら生温かさからでしかないと思うし、これまでもなかったんだと思う。

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