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小説

それは自然に湧き出る。迷っていることがあるようだ。それらは事前にわかっている以上のものであるようだ。だからか、あるようだなんて言葉で結ぼうとする。どういう話をしたらどういう学習したらどういう感想をくれるか、話すたびに静かに確かめる、前提が食い違っていることも。それはみなが知っている当たり前の話だ。これはそのうえの話だ。どうしてだか一つの記述の話から二つの話が湧き出ることが価値をもちうるか。説明とは記述をトートロジーという地図にマッピングすることだ。それは情報を増やさない。しかし、二通りの説明、二重重複は、両眼視差と同様だ。奥行といった新たな次元の情報を生む。そんなふうにいってみたところであまりにもありきたり、意味のないようなものだが、あまりにも知らない人が多いというだけの話なのかもしれない。しかし日記未満の私記、つまり備忘録に過ぎないこんな話に、前置きする必要などないのだ、決して!読み聞かしたところで子供が啜り泣きせず、気持ち良い寝息を立てることすらしないだろう、それに読み返したところでつまらない話だ、どうか、君はそのような話を聞かないでくれ、どうか!私の言葉はどこにも届かないことを確かめるためにこそ、ここに言葉を置くのだ。そうだ、私の言葉は、君から何かつまらないだとか、未熟だとか、もしくは称賛されたところで、明日変わらずに、朝鶏が鳴く前に起きて、靴下を右足から履き、大しておいしくない料理を食べるだけの日常を送るだけのものなのだ。大して変わらない。君はいうだろう、早く寝たほうがいいと。恥ずかしいことをいわないうちに。どうしてここまで酔ってしまったのか、そうか君は見ていなかったのか。そうだったか。まあよい、そうだ、君は飲まないのか、よくここまでやってきてくれたものだ、ここにウイスキーがあるのが見えないのか。そうか、見えるが飲む気はないというのか、やはり早くここから立ち去ってくれ、早く、早く立ち去ってくれ!わたしには何をしでかすかわからない。私にはあの男の気持ちがわかる。子供の歌声がうるさいという理由だけでナイフを持っている自分が怖くなって、自ら自首した男のことが、そうだ、幸せを背負ってくる光の眩しさに耐えられなかったのだ、あれは今の私だ。今すぐ立ち去ってくれ、今の自分が何をしでかすかわからないのだ!はやく立ち去れ!ただそれだけの話だ。やはりそれだけの話なのだ。昨日だったか、スリジャーノフが私が視界に入った途端目を伏せたのを今思い出している。君はスリジャーノフが将校として生活をしていた時代から知っていたはずだ。君もスリジャーノフと同じだ、私のことをあの哀れな娼婦を刺した、疑ううちの一人だと、思っているのだろう、そうだ、私があの娼婦を刺した、あの君たちのよく知る、柄の細いあのナイフで刺した。そうだ、それが君たちの知るところだろう。つまり君たちの知るところの通りだったということだ。なぜそんな目で私を見るのだ。私がそれを真実だと言っているのだ。それがお望みではなかったのか。さあ、私を連れていくがよい、私があの哀れな人、私から手に口づけしてもし足りぬあの慈悲深い、ああ、あれ以上に慈悲深いお方もいないのだ、そんなお方を刺してしまったのだ。私はあの夫人のことが哀れでならなかったのだ、そうだ、私をつれていけ!私はいくらでも罪を受けるのだ。君が持っている、その定規をあてがっていればいいのだ。私は受け入れるだけの用意はできている。さあ連れていけ、そして知るだろう、君の持っている定規の重さを、そのうち持つことができなくなるだろう、その定規にすら黒い血が見えるようになるだろう。私はそれを楽しみにすらしていない、私にとってはそれはすでに過去だ。私は何も見ていない。何も見ていないのだ。私は何も見る必要を感じない。だから連れていけばいいのだ。それは大した意味をもたない。しかし、君の語るその誠実さに打たれているのだ。アリョーシャ、君はつまらない。君のいうことは予想がついていた。しかし、無駄ではなかった。屑でも額に入れれば金と同じ価値を持つものだ。それは普遍的だ。屑であっても価値がある。それを気づかせてくれた。屑と金の違いはない。君たちは屑が好きだ。屑は金を指す。金は屑を指す。そうだった。誤りはこの世界にはない、矛盾だけがあるのだ。ここはクレアトゥーラ、金と屑、すべて偽薬、つまり、あの路肩の壺、熱狂的なあの俳優のための首飾りの鈍い輝きをさすものだ。私にはわかっている、私にとって何が屑なのかということは対して意味は持たない。君にとってと同じように。君と私を見比べる、それだけに価値が生まれたというだけのことだ。その重要性に改めて気づかせてくれたということだ。ところで遺伝子は融合するようだ。ランダムな遺伝子同士が結びつくために、ある程度のバランスを取るためにでもある。そういうことだ。類から見ての君と僕のことだ。そして絡み取られただけの君と僕という研究促進概念だ。〈君と私〉に一貫性がないために乗り越えられることがなく耽溺したということだ。もう私は覚えておく必要がない。同様に君は覚えておいても良い。性格とは変わらない自己増強的な性質を持つから性格というのだ。それは進化と同じだ。君は話していればよい、黙っていれば良い、どちらにせよ差異を産む。その差異をただ飲み込む。そして新たな差異が生まれる。君は安心して間違えれば良い。私も無心であれ間違えるだけなのだから。

P.S.
自己紹介にあるように上に書いてあるのはもちろんフィクションです。これまで曖昧にしてきましたが、基本フィクションだと思ってくれたら。なぜこう前置きするかというと、現実について言及することで必要以上に歪みが加わるのが怖いと思うからです。Twitterで時事問題について語っている人をたまたま見てしまった時など怖くて仕方がないです。あれはただフィクションにおいての登場人物の1人として、ただの愛すべきカワイイ人としてテキストとして眺めるくらいがせいぜい教養としてもよいといったものであって、現実の中で起こっているとなるとただただ恐ろしく悲しくなります。なぜ今頃になってこんな注意をいれたかというと、子供が可哀想に思うことが最近多いからです。でも、個人が発する言葉が悪いというよりも過程としてあれば価値があるものが結果と受け取られて、間違えても訂正できない構造になっていることも恐ろしく怖いです。それでも、適度な残酷さを日常として嗜むのがリテラシーです。そんなこと言ったところで崩れるときは崩れるわけなので、間違いに寛容であれたらと思いながら、身の回りのことをするしかないのですが。

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