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本物じゃないだとか

かわいいのがいい。
かわいいのがない。 

わたしにとってのかわいいがいい。
でもやっぱりどこにもない。

このかわいいは、みんなにとってのかわいいで。
わたしのかわいいはこんな色をしていなかった。
有機栽培ではなかった。
添加物もりもりだった。
でもその添加物の色がきれいだった。
わかんないけど、本当にそうだった。

きれいなもの。かわいいもの。



「ねえ、それって本物じゃないよ。」


そんなテーマの作品ばかり好きな気がする。

「月」「惡の華」「熱のあとに」
https://www.tsuki-cinema.com/


https://after-the-fever.com/


それぞれの登場人物が本物を目指す。

キレイゴトをはがそうとする。そして心のない物を殺す。(「月」)
恋だとか愛だとか告白だとかという皮をかむったものがクソムシにみえる。そして空を見上げる。(「惡の華」)
永遠にしてしまえる愛を求めようとする、今の愛は永遠にしてしまえる本当の愛なのか。(「熱のあとに」)

本物を目指そうとする。
それはいつも失敗する。
失敗することが常に決定されている。

本物を探す。
本物だと思うものを見つける。
でもそのたびに問われてしまう。
「ねえ、それは本物なの?」
「それはどうして本物なの?」
「本物だと本当に思っているの?」

問うのは私のようなもの。
気づけばずっとまえからだった、そしていつまでも後ろから見つめ続けてきて離さない。
月、亡霊、痕跡。

本物には理由はない。
本物であるから理由をつけることができない。
だからさらに探す、見つける。を繰り返す。

あれは偽物。それこそが本物。
でもその本物はやっぱり偽物。

本物を探そうとすること。
それは祈りに近い。
祈りは届かないから祈り。
届いてしまった途端にそれは本物ではなくなる。
というよりそもそも届かないようになっている。


わたしたちはこれまで習ってこなかった。
本物を探しすぎてはならない。
本物は一つではなかった。
本物は偽物だと思うものにこそあった。

でもそれは習うものではなかった。
本物を教えてくれるものは疲労だった。
時間を必要とした。
「熱のあとに」で描かれるようなあの長い60秒だった。60秒とそれまでの生きてきた年数だった。
どこに届くかわからない手紙をだしてきた時間。
そしてその末のあの60秒の日常的でいて大一番の賭け。

性器ではない器官の一時的な盛り上がりと持続してしまう記憶。
「セックス」にならないセックス。
本物は一つではなかった。
そのうえで今見つめてみる。
そんなもののしか今の私には残されていない。
振り返るといつもそうだった。

永遠にしてしまいたいような本物。
ようなものを支える実感だけが、
本物としてあれたようなもの。

P.S.
精神分析的な理解をしてしまうことは簡単かもしれませんが、それぞれ映画を見た時の個別の重さを大事にしたいような作品でした。
特に『熱のあとに』は何度も見返したい。
さなえは私にとても近い。

参考
千葉雅也『意味がない無意味』「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」など

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