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【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(5)

第1話あらすじ

「おはよう天野さん」
聞きなれない声に、美咲はびくっと肩を震わせた。

笑顔でのぞきこんでいるこの男――
ああ、昨日のお医者さん。
ええと……高坂先生。
白衣、着てる……。

「あれから眠れましたか?」
「はい、おかげさまで」

いつもより体が軽い。
それでもやはり寝起きは関節が強張っている。
横向きで寝ていたから下になった右腕は力が入らず、支えにして立とうとすると、ガクッと力が抜けて体勢が崩れた。

「体、痛いですね?」
雪洋が支えてくれる。
白衣を着た雪洋に、美咲は素直に身を委ねた。
――不思議なことだと思う。白衣を着ていようが着ていまいが、中身は同じ高坂雪洋だというのに。

「毎晩あれでは寝不足でしょう。精神的にも肉体的にも参ってしまうのは当たり前ですね」
「お陰様で、昨夜は久しぶりにぐっすり眠れました」
いつも起き上がるまでかなり時間がかかるのに、今朝は幾分体が軽い。笑顔も自然にこぼれる。

「あ、そうだ先生。一つお願いが……」
「何でしょう」
「髪、結ってくれませんか」

男の人にこんなお願いをするのは気が引けるが、肩が痛くて腕が上がらないこと、故に髪を結わうだけじゃなくブラッシングさえ難儀することを説明する。
いいですよ、と雪洋は快く応じてくれた。

「切りたいんですけど、美容院で長時間座り続けると膝が痛くて」
美咲の長い髪を結いながら、「切ってあげましょうか」と雪洋が軽く申し出た。

「先生できるんですか?」
「やったことはありませんけど、手先は器用ですから大丈夫でしょう」

自分で器用って言いますか、と苦笑したが、きっちりと一つにまとめてくれた髪を鏡越しに見て、たしかに手先は器用だな、と感心する。

「白衣は夜中だけで大丈夫ですか?」
「あー、……はい。わざわざすみません。ありがとうございます」
本当は一日中白衣でいてほしいが、そこまでわがままは言えない。

「医院で着るのはスクラブ白衣ですし、こっちは昔ので今は使っていませんから、夜中の訪問着にしましょうね」

雪洋は白衣を脱ぎ、「さ、朝ごはんにしましょう」と車椅子を寄せた。

 

隣の部屋へ移動する。
すっきりと片付いたリビングダイニングキッチン。雪洋に支えられながら、食卓用のイスに乗り移る。

「朝ごはんの前に、これ飲んでてください」
目の前に湯飲みが置かれた。
「何ですかこれ」
「白湯です。起き抜けに一杯、ゆっくり飲んでください。胃腸が整いますから」

言われた通りに白湯を飲み始める。
一口飲むごとに腹の中があたたかくなるのを感じ、それが何とも心地よい。

キッチンから卵を焼く音と匂いが漂ってくる。
思えばこうやって誰かに朝食を作ってもらうなんて、長い間なかった。

テーブルに向かい合って座る。
昨夜の晩ごはんもそうだったが、雪洋の料理の腕は実に素晴らしい。今朝はとろとろふわふわのオムレツの出来栄えに目を丸くした。

「美味しそう……」
「美味しいですよ」
しれっと言ってくれるが、食べてみるとなるほど自分で言うだけのことはある。

「先生彼女いないでしょ」
「特定の女性はいませんけど」
「ふふ、やっぱり」
「イメージですか?」
「イメージです」

これだけできると逆に女性から嫌がられそうだなと、妙な確信があった。

独り身のイメージだと決めつけた時の仕返しとばかりに、勝ち誇った顔で美咲は言ってやった。


朝食後、雪洋からステロイドという薬が渡された。本当はあまり使いたくないんですが、と言われて昨日から飲み始めている。

色々と説明はされた。
ステロイドというのは免疫力を抑制するので、感染症に注意しなければならない。
それに一度服用を開始したら、患者が勝手に中止してはいけない。医師の判断で徐々に量を減らしてゆく。

飲む量と個人差にもよるが、副作用もある。
でも飲まないわけにはいかない。
こんな飲み薬で治るなら楽なものだ。

些細な疑問でも、雪洋は一つ一つ懇切丁寧に答えてくれた。ステロイドを飲むとどうなるのか。飲まないとどうなるのか。副作用はどのようなものがあるのか。

それを説明した上で、さらに副作用防止のための薬――骨粗鬆症予防の薬と、胃腸薬も二種類処方された。つまり骨と胃腸にも負担がかかるということ。

「こんなに何種類も……。ま、自業自得ですよね。何年も病院行かなかったんだし」

雪洋を見ると、眉根を寄せ、目を細めて美咲を見つめていた。それが何を思っての表情かは、美咲にはわからなかった。

  *

誰もいない、休日の診察室。
採血用の医療器具の準備をする雪洋を眺める。
雪洋はマスクとスクラブ白衣に身を包んでいた。

「やることがちょっと多いですが……採血と尿検査とレントゲン。あと生検をします」
「セーケン?」
「生体検査のことです。紫斑の組織を少し取りますね」
「……結果、何も出ないかも知れませんね」

また「異常無し」と言われるかも知れない。

美咲には、あきらめることによって心を防御する癖がついていた。そしてそれは、美咲の表情を卑屈にさせる。

「たとえ結果が異常無しでも、出ていけなんて言いませんから。安心してください」

はい、と返事をした美咲だったが、顔はうつむいたままだった。
そこまでやって何も出なかったら――
それを思うと途方に暮れるしかない。

病気でも何でもいい。
とにかくこの変な体質の正体を知りたい。

診察台に横たわる。
足に麻酔を打つ雪洋をぼんやりと眺める。
美咲には気になることがあった。

「あの、高坂総合病院って先生と関係あるんですか? 名前、同じ『高坂』って……」

ああ、と雪洋が眉を上げた。
きっとよく聞かれる質問なのだろう。

「身内がやってる病院ですよ。祖父の兄が開業し、今は父が継いでいます」
雪洋は麻酔を打った足を見つめたまま答えた。

「先生はどうして高坂総合病院じゃなくてこの医院に?」
「それもよく聞かれますけど、どうしてもあちらに行かなければいけませんか?」

雪洋が笑う。
その笑い顔が、作り笑いのようにも見えた。

「あちらは兄が継ぎます。ここは私の祖父が建てた医院でした。閉鎖するというので私が継いだまでです。祖父のことは尊敬していましたし、改築の費用も出してやると言うのでね」

雪洋がまた笑う。
今度は自然な笑顔に見えた。

「天野さんをここにおいて改善させようというのも、祖父の教えがなければ思いもしなかったでしょうね」
「じゃあ私、先生のおじい様に感謝しなきゃ」
「直接祖父に診せられればいいんですけど、もう他界してしまいましたから」

そうなんですか、と相槌を打ちながら、もう一つ気になることがあった。

「あの……」
「何ですか?」
「勘違いだったらごめんなさい。先生前に、高坂総合病院にいらっしゃいました?」

白衣を着た姿、はっきり記憶しているわけではない。だが高坂という名字と病院名の組み合わせは、数年前にも見たような、そんな気がしないでもない。こうさか医院で初めてネームプレートを見たときの違和感のような既視感のような、あの感覚が。

雪洋はほんの少し目を細めたが、マスクをした顔では表情を読み取れない。

「――足、触られている感覚ありますか?」
「え? いえ、全然」
「麻酔が効いてきたようですね。じゃあ始めましょうか」

無視されたのだろうか。
しつこく尋ねて怒らせただろうか。
雪洋の声音は普段と変わらない。

「高坂総合病院にいたことはありませんよ。私はずっとこの医院にいましたから」
微笑んでいる目も、今までと変わりなく見える。

「そうですか……。やっぱり私の勘違いかな」
色々と聞きたいこともあったが、これ以上は聞いてはいけない気がして、美咲は黙っていた。

「ああ、そうそう。診断書を書いてあげますから、会社に出してくださいね。検査結果がまだなので診断名は適当につけますよ。自宅療養は……そうですね、半年くらいにして、後は経過見ながら追加しましょうか」

何の話かとぼーっと聞いていたが、「自宅療養」「半年」の言葉で我に返る。

「半年っ? そんなの休みすぎ――」
「まさか」
凛とした声が遮る。
「この期に及んで仕事があるからとか言いませんよね? 天野さん、この水泡になっている紫斑、崩れたらきっとひどい潰瘍になりますよ」
にっこり笑う目がかえって怖い。

診断書が出るなら休みは取れるだろう。
しかし休めばその間の仕事はどうなるのか。
結局は自分に返ってくるのではないか?

「……一週間でお願いします」
「それじゃ療養したことになりませんよ。じゃあ三ヶ月にしましょう」
「先生、本当にそんなに必要なんですか? せめて二週間で……」

雪洋が目だけを動かして美咲をにらみ、呆れたようにため息をついた。

「一ヶ月にしましょう。これ以上はまけませんよ」

  *

木々の葉が濃い緑に輝いている。
外は七月の太陽がまぶしそうだ。

この家での生活もだいぶ慣れてきた。
医院を開ける時間になると、雪洋は渡り廊下を通って診察へ行き、美咲は一人になる。
本を読みたければ本を読み、眠くなれば眠った。

こんなにのんびりしていいのだろうか。

夜中に目が覚めてしまうほど体はまだ痛むが、雪洋が徹底して美咲を安静にさせてくれるから、環境は快適に尽きた。

基本的に立ち上がることは禁止。
一日の大半をベッドで過ごす。
一週間もすると体の痛みはかなり引いたが、その後も美咲は安静を強いられた。

「――こら」

声がして反射的に目を開けると、雪洋がのぞき込んでいた。

慌てて体を起こす。
まぶしい七月の太陽はいつの間にか姿を隠し、家の中は薄暗くなっていた。

「あれ? 先生? ……お帰りなさい」
「お帰りじゃありません。ソファーなんかで寝て。まさか家の中を歩きまわっていたんじゃないでしょうね」
「やー、はは……。退屈だからちょっとテレビでも見ようかなって思って……」
「日が傾いたのに何も掛けずにうたた寝して。――失礼」

雪洋が両手を伸ばし、Tシャツから出ている左右の二の腕を包み込んできた。

「あったかーい、先生の手」
「違います。あなたの体が冷えたんです。冷えは体によくありませんよ。さ、ベッドに行きましょうか」
「先生、痛みはだいぶ引いたのに、何でまだベッドで生活しなきゃいけないんですか?」
「調子に乗ってはいけませんよ。あなたにはまだまだ安静が必要なんです。退屈なら何か本でも買ってきてあげましょうか?」
「うーん、本もいいけど、先生とお話してる方がいいかな」

おだてでもなんでもなく、雪洋との会話は好きだった。体について質問すれば、いつも懇切丁寧に説明してくれる。知的欲求を満たしてくれたし、それによって安心も生まれた。

ふと気付くと、雪洋は軽く眉を上げて、ごくわずかに驚いたような表情をしていた。

「……先生、もしかして照れてるんですか? わかりづらいですけど」
「わかりづらいだなんて、瀬名先生みたいなことを言わないでください」

一気に苦虫を噛み潰したような顔になった。
瀬名というのは、ここへの転院を勧めた高坂総合病院の皮膚科医のことだろう。雪洋とは知り合いらしい。

「瀬名先生にもわかりづらいって言われるんですか?」
「その話はいいです。あの人は私をからかって遊ぶのが好きなんですよ」
わずかに眉を寄せた表情を見ていると、あまり瀬名のことが得意ではないようだ。

「じゃあ先生、安静にするとどういう風にこの体にいいんですか?」
「百聞より一見の方がいいでしょう。失礼」
雪洋が美咲のパジャマの裾をまくった。

「あれっ、紫斑……目立たなくなってる」

あんなに真っ赤だった紫斑の色はくすみ、大きさもかなり小さくなっていた。ホクロのように黒い点になっているものもある。

「ああ、いいですね」
雪洋も満足そうに微笑んだ。

「安静にしなさいと言った意味がわかってもらえましたか? 立ちっぱなし座りっぱなしは紫斑が悪化しますけど、足を高くして横になれば紫斑は消えていきます」

正直、ここまでとは美咲も思っていなかった。まだ薄く残ってはいるものの、自分の足に見惚れる。

「薬を増やすよりも、一時間でも多く寝た方が体にはいいんですよ」
「でも会社勤めしてると、なかなかそうはいかないんですよね」

そんなのんきじゃないのだ、と異議を申し立てると、
「だから会社辞めたらいいのに」
すぐに返り討ちにされてしまった。

  *

「今日は少し散歩してみましょうか。まだ歩きまわられては困るので、車で行きましょう」

翌早朝、雪洋とともに向かったのは、家の裏手にある小高い丘だった。車がかろうじて通れる程度の遊歩道があり、突き当たりにはこじんまりとした木製のベンチがある。

空気は澄み、朝日が木々の葉の一枚一枚を輝かせている。
何よりそこから見える景色が素晴らしかった。
見下ろす街並みは小さく、遠くの山々まで見え、空が大きい。

「裏にこんなすてきな場所があったんですね」
「気に入りましたか?」
「はい!」

神々しい朝日は、無条件で「新しいスタート」を想像させた。

「太陽に見守られているみたい。気が漲ってくる……」

「気持ちが枯れているときに無理やり『前向きに』『ポジティブに』と言われても苦しいものです。まずは溜まっている悪い気を出して、きれいな空気の中に身をおいて、少しずつ栄養を取っていくことが大事だと思いますよ」
「何だか植物みたいですね」
「昔、祖父に教えられました。あるべき姿に整えれば、自分らしい美しさで輝けると。子供の頃、私の顔はひどい皮膚異常に襲われたんですが――」
「え、全然想像できない」

雪洋の今の顔は、憎らしいほどきれいな肌をしている。

「でも祖父のもとで暮らしているうちに、きれいに治りました。ストレス源から離れ、自然の空気を吸い込み、自然の物を食べ、自然の中で伸び伸びと育てられました。祖父が私をあるべき姿に整えてくれたんです」
「それだけで? 薬も使わず? なんかすごく……」
「簡単だと思いますか?」

美咲は雪洋にうなずいた。

「その簡単なことが、現代の大人にはなかなかできないことなんじゃないですか?」

美咲に向けられた雪洋の微笑んだ目が、あなたもそうでしょう?と言っているようだ。

「美咲」
「は、はいっ?」

突然下の名前で呼ばれて背筋が伸びる。

「いい名前じゃないですか。今は苦しい時ですけど、じっくり充電すれば気が漲ってくるはずです。そしたらきっと、その名前のとおり、美しく咲くことができるはずです」

両親は、「心から美しく咲き誇るように」という願いを込めて、「美咲」と名付けてくれた。
でもこの何年かは、すっかり枯れ果てている。

「先生の下の名前は、たしかユキヒロさんですよね。『雪』に太平洋の『洋』……」

ネームプレートを見て覚えた名前を、指で宙に書く。

「はい、雪洋ゆきひろです。生まれた時、雪が世の中のものを全て埋め尽くして、真っ白な大海原のようだったと、母がいたく感動したようで。この景色のように、乱れを真っ白にして鎮められるような、冷静で無垢な人間になってほしいという意味だそうです」
「素敵ですね……」
「いや、よっぽど家庭環境が悪かったんじゃないですか?」

しれっとして言う雪洋に、美咲の顔が引きつる。

「でもお母さんの望み通りになったんじゃないですか? 先生いつも涼しい顔してますし」
「どうですかね。でもあなたの体については、真っ白にしたいと思っていますよ」
「ぜひお願いします」

二人で笑いあう。
笑ってはいるが、美咲にとっては切なる願いだ。

「――朝日っていいですね。こんな風に眺めることって、久しくなかったかも」
「今とってもいい顔をしてますよ。穏やかで、いい笑顔です」

ここからの朝日を毎日見ていたら、雪洋のような穏やかさを持てるだろうか。

「いつも心にこの朝日を宿していなさい。いつでも思い出せるように」
「はい、先生」

美咲は朝日に目を細め、胸に手を当てて微笑んだ。この朝日の明るさと、あたたかさと、今の気持ちを、心に刻み込むために。

「じゃあ戻りましょうか、美咲」
「え? あ、はい」
「ほら行きますよ、美咲」
「は、はいっ」

どうやらこれからは、下の名前で呼ばれるらしい。


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どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…

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