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【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(29)

第1話あらすじ

  ●問診

その日の午後、想定外の体力仕事が課せられてしまった。公民館での催し事の準備に、美咲が助っ人として駆り出されたのだ。

脚立を運んだり、展示物を飾る台やパネルを設置したり。正職ではない美咲がこういった助っ人仕事をするのは時々あったが、連日足へ負荷がかかることだけは、心底避けたかった。明日木曜日は、学級文庫を選ぶ作業があるというのに。

「これからは……公民館側の予定も、チェック……しておこう……」
重量物を持って、すでに階段を五往復していた。

そして木曜日は予定通りの学級文庫。
当然美咲の体は悲鳴を上げる。
久しぶりに足の裏が腫れ上がった。
疲労感も抜けない。

帰宅後はじっくり入浴して早寝に努めたが、翌日金曜日は、寝起きからあからさまに不調。
全身が痛い。
足の疲労感と関節痛は顕著で、明らかに体が悪い方へ傾いていた。

勤務中もそれは変わらない。
返却図書を書架へ戻すだけで、息苦しさを覚える。

「天野さん、足……っ」
沢村が声をひそめて近付いてくる。
美咲のふくらはぎには、くっきりと真っ赤な斑点がいくつも出ていた。

みみず腫れになっていたところも、やはり雑菌に触れたのか、腫れが広がり、傷ができていた。

ああしまった、油断した。
暑くても七分丈なんか履いてこなきゃよかった。

足、と言われた時点で、美咲の中に絶望感とか、無念とか、不覚とかいったものがないまぜになってはびこり、気持ちが折れる。

でも今の美咲は折れっぱなしで終わりではない。
すぐに自分の足で立ち上がり、前に進む。

「沢村さん、すみませんが早退して病院へ行ってもいいですか?」
まだ早い時間帯に紫斑が出たとなると、夜はもっと出るだろう。この際仕事も歓迎会も休んで薬をもらった方が、体のためにはよっぽど前向きだ。

「ああ、そうした方がいい。仕事の方は心配ないから」
沢村はどこか飄々とした風情を持ち合わせていて、それが美咲にはありがたい。抱えていた図書を沢村に取り上げられ、そっと背中を押される。

「痛い? 歩ける?」
「大丈夫です。他の方々にも声掛けてきますね」
本当はすでに膝やら足の裏やらが痛くてまともに歩けない。だが大袈裟にして根掘り葉掘り聞かれるのは避けたい。

なるべく普通を装って歩を進めていると、沢村が美咲の両肩をそっと押さえた。
「無理するといいことないよ。ちょっとここで待ってて」
沢村は事務室にいる職員に、普段見せない真剣な面持ちで声をかけた。
「ごめん。天野さん体調悪そうだから早退させるね」
「えっ、大丈夫ですか? お大事に……」
沢村の真剣さが有無を言わさぬ説得力となった。
美咲に行けと目配せする。

――先生、察してくれる人、ここにいました。

「すみません、お先します。歓迎会の方もすみませんが……」
いいよいいよと同僚たちが応える。軽く会釈し、足を引きずってロッカーへ向かう。

よかった、これで今日は堂々と休める――
そう思ったとき、沢村が美咲を呼び止めた。
「天野さん、俺ついでに送ってくよ」
思わぬ申し出にぎょっとする。
不調時にあまり人と関わりたくない。

「ついでって、なんのついでですか?」
「サボりのついで」
こういうときに沢村の飄々とした性格は厄介だ。
「でも送っていただくほどじゃないので」
丁重に断ったが「いいからいいから」と結局沢村に押しきられてしまった。

「あの、本当に一人で大丈夫ですよ」
駐車場でもう一度言ってみる。
「足引きずってるくせに、大丈夫じゃないだろう? いいから言うこと聞きなさい」

もはや沢村の真意がサボりなのか人助けなのかわからない。「乗って」と肩を押されて、美咲は助手席へ押し込まれた。

「お仕事、大丈夫なんですか?」
沢村がどのくらいの仕事を抱えているか、補助の美咲がわからないわけがない。
「いいのいいの。で、どこへ行けばいい?」
相変わらずどこ吹く風だ。
「じゃあ、高坂総合病院へお願いします」

車が発進する。
沢村のサボりはこれで確定だ。

 

「足に出てるそれ、よくあることなの?」

紫斑の話題――
当然聞かれるだろうと、美咲も心の準備はしていた。

「昔から皮膚が弱くて。でも多分、今回のもすぐ消えますから」
「そう、ならいいんだけど……。病院は、かかりつけ?」
「はい、何かあったときは高坂総合病院に行ってます」

そろそろ話題を変えてほしい。

「本当にご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」
話を終わらせるつもりで詫びる。
「全然ご迷惑じゃないよ。むしろこうなったことに感謝したいというか」
「サボれたことですか?」
沢村は笑って「いや」と答えた。

気付くと車は、道幅が広くなったところで減速し始めた。ハザードランプをつけて車が停まる。
さてはこれからが本題か。
背筋に冷たいものが流れる。

「あのさ、今回のことに限らずなんだけど、天野さんって足悪いの?」
来た――
「時々足引きずってたから」

それは恐らく、たまたま足が痛かったときだ。
ほとんど痛みがなくなった今でも、体が冷えたり疲れがたまると、やはり時々は痛む。

「え、そうですか? よく見てますね……」
笑顔を作るも、顔が強張っているのがわかる。
「うん、結構見てた」
「私、学生時代に部活で足を痛めたので、その名残で時々……」

皮膚異常のことは「皮膚が弱くて」、関節痛のことは「昔ケガして」と言うことにしている。

「そんなに……気になりますか?」
「うん、すごく気になる」

かつては「バアサンみたいな歩き方」と言われたこともある。思い出して落ち込んでいると、
「ごめん、そういう意味じゃなくて」
と沢村が訂正した。
じゃあどういう意味なのかと続きを待つが、それについては出てこなかった。

「仕事は大丈夫? 本って案外重量物だしさ。つらいときは俺のこと使っていいよ」
図書館員たる者、本が重いなどとどうして言えようか。
「勤務には差し支えありませんから。すみません本当にご心配おかけして……」

沢村は一向に車を発進させる気配がない。

「うん、やたら心配なんだよね、天野さんのこと」
「本当にすみません」
「いや、そうじゃなくてね。……参ったな、本当にわかんないかな」
「何が……ですか?」

沢村の真意はわからないが、とにかく早く話を切り上げたい。

「だから――」

沢村が美咲の方へ、わずかに体をかがめた。
沢村の気配が、美咲に重なる。

「天野さん、俺と……付き合ってくれないかな」

ややためらった、囁くような声が降ってきた。
沢村の陰の中、目を見開いたまま、美咲の動きが止まる。

「実は前から好きだったんだ。――って言ったらびっくりする?」

沢村の気配が支配する領域で、美咲はスイッチが切れたように動くことができなかった。

「あれ? 本当にびっくりした? 結構あからさまに口説いてたつもりだったんだけど」

しびれを切らして先に沢村が口を開いた。
それでも美咲はまだ何も言葉を発することができない。瞬きも、呼吸すら忘れてしまったかのように。

「なんか言ってよ。でないと……キスしちゃうよ?」

冗談めかしていたが、美咲が否定も肯定もしないのを見ると、沢村は笑みを消して、ゆっくりと唇を近付けてきた。



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