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山田錦のお母ちゃん。

龍力では、山田錦のルーツを知ろうという思いの下、山田穂復活を手がけました。
1992年頃山田穂復活を目指し、種もみ探しを始めました。
改良された新山田穂と言われる稲の種子は、すぐ見つかったのですが、山田錦の母である山田穂の種子は見つかりませんでした。

そこで、酒米試験地にご協力いただき、京都大学に山田穂の種子が保存してあることがわかり、少しわけていただき、JAみのりの協力の下、
1998年に発祥の地である兵庫県多可町にて復活させました。
1999年に特別純米山田穂を発売することにいたりました。

今の山田錦に比べると、背丈は20センチほど高く、収量も少ないお米です。
だから、山田錦より値段が少しお米代が高いのです。
龍力は、山田錦への愛がとめられない(笑)

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山田穂は、明治時代に発見された酒造好適米です。
山田錦の母となったお米で、明治時代後半から大正、昭和にかけ兵庫県の代表品種として栽培されていました。


山田穂の名前の由来には、4つの説があります。

1・「山田さんが見つけた稲穂だから山田穂やでー」説
2・「伊勢山田から獲って来た稲穂やから山田穂」説
3・「山田町で栽培されていたから山田穂」説
4・「山の田んぼで栽培されていたから山田穂」説

以上4つの説があるが、一番有力とされているのが

1の山田さんの説です。山田穂は、大粒で性能が良いが、背丈が高く少し育てづらかった為、純系淘汰法により品種改良がおこなわれた。1921年に新山田穂1号が、1922年には新山田穂2号が山田穂に変わり、奨励品種となりました。その後山田錦の登場により現代では、ほぼ育てられていない品種となっています。

昔の話とはいえ、適当な名付けである(笑)
また、名前の呼び方ですが、生産者は、やまだ「ぼ」と呼び、統計データでは、やまだ「ほ」となっています。時代により「ぼ」になったり「ほ」になったりとそこもまた不思議である。
個人的には、方言なのではないかと思っている(笑)

詳細

①1877年頃(明治10年)山田勢三郎氏が、自社田にて発見し、栽培育成し、自身の姓をとって山田穂と名付けた。優秀なお米だった為普及していった説(兵庫県多可町発祥)


②田中新三郎氏が伊勢詣りの時に、伊勢山田の近くの田圃にて、背丈の高く、粒の大きい稲穂を発見し、持ち帰り、吉川町で栽培育成した。伊勢山田から採取したため山田穂と名付けた説。(兵庫県吉川町発祥)
昭和21年に会誌「農業」8月号の井上克己氏の寄稿によると
吉川町では「奈良穂」と呼ばれる山田穂より粒の大きい品種が一番栽培されていたとある。また、明治43年の小作米品評会にて、奈良穂出品 田中新三郎とあり弐等を受賞しており、同一人物であれば、持ち帰ったものは「奈良穂」である可能性が高い。


③東田勘兵衛氏が、現在の大阪市茨木市(河内の雌垣村)より評判の良い品種の種子を取り寄せ、神戸市北区山田町藍那にて栽培育成。評判がよく藍那穂と呼ばれるようになり、山田町の名前をとって「藍那穂」が「山田穂」と呼ばれるようになった。(兵庫県北区山田町発祥)大正11年発行の兵庫県米穀検査報告書によると藍那穂は、山田穂とは別の品種として扱われている。しかしながら山田町の稲穂という意味で、山田穂と呼ばれていたこともあり山田穂発祥説になったのではないかと推測される。山田穂と藍那穂は別品種である。


④明治時代の初期、とある老農が、自分の所有田にて、突然変異の大粒のお米を発見し育成栽培した。東条谷の山田(山間の棚田)が栽培に適していたという事から山田穂と呼ばれるようになった(兵庫県東条町発祥)

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