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夏だ。

 窓を貫通する尖った鳴き声が私の耳に触れる。その信号が脳まで伝わったおかげだろうか。そういえば夏だった、という文字の羅列が雲になって現れた、ので、ふとカレンダーに目をやる。「4月」と書かれた紙は私の性格を如実に表していた。年々季節を感じる術を失っている気がする。いや、感じる必要性が無くなってきている、の方が合っている。そうに違いない。この六畳一間と共に経過する時間の長さがその腑抜けた思考を作用させているのだろう。
さて、夏の訪れを直接的に虫の知らせで知った私は、何やらタイムスリップした感覚に陥っていた。タイムスリップとは聞こえはいいが、過去から現在までが階段上になっていると仮定した場合、単に私は足を滑らせただけの人である事に違いはない。が、それでは旨みもないので、今は原始的な、いや、レトロな、いや、忙しない日常を走っている大衆とは一味違う、といった特別感を存分に味わおうと考えたのだ。
そいつは私に怠惰を供給してきた。私は決して欲してはいない、が貰えるものは貰おうではないか。貰う物は夏も小袖なんて言葉があるし。私の先祖は商人や農民だったのだろうか、なんて想像ができるのも、「怠惰」だから、なんて想像は考えないようにしたい。
私は決して欲してはいない、と思うのは欲してはいけないからで、ここでは需要と供給を成り立たせてはいけない。怠惰を欲するというのは余りにも聞こえが悪いのだ。それは世間的には「甘え」、である。が、怠惰をくれるから仕方なく貰うというのはどうだ。これは「ご褒美」、となる。差は歴然だ。存分に味わおうではないか。すっかり悪代官のような思考に変化していた。
よいではないか。
ょぃではなぃか。



夏だ。
それは今日を始めるには良い契機となった。
暑いからどこかへ行こう、とはならない。何かしよう、ともならない。いわば今日というモータがゆっくりと回転を始めたような、そんな頼りない機関が作動しただけであった。
そうだ、街へ行こう、なんてありきたりなフレーズを思い浮かべる。私が思うに、ここで街に行ける人と行けない人に分かれる。行ける人というのは、とりあえず行ってみてから考える行動優位派で、行けない人は、何をしようか考えてから行く思考優位派だ。私はとりあえず行動優位派、思考優位派という言葉自体を考えたがる無行動思考派である。これは有限実行よりも不言実行の方がカッコよくスマートに見えるといった現代の風潮に沿っている、と瞬間思ったが、全くそうではなかったし、そもそも現代の風潮でもなかった。こうしてる間にも皆は何かを決定し、行動しているのだろうか。そう考えると一層不安が募る。大体「こうしてる間にも」という言葉には悲壮感の濃度が高すぎる。たぶん現在から未来にかけての時間が一気に流れ、周囲との孤立が安易に想像できるからであろう。その相対的なスピード感がより一層寂しさを引き立たせているのだ。 
こうしてる間にも皆は、もう、冬のあの冷気、それを存分に含んだ淡い色の空を味わっているのだろうか。 

季節に取り残された私に、息の白さはまだ見えない。




夏だ。
羽の無い扇風機に首を突っ込んで風の当たる箇所と当たらない箇所の違いを楽しんでいた私は、今ならこれを自由研究の題材に選定しただろうな、と思うと同時に昔作ったピタゴラ装置を思い浮かべた。ビー玉をスタートからゴールまでどのように導いていくか、それをひたすら夢中になって考えていた研究心に感心すると共に、それを現在と比較してしまって、少し悲しい気持ちになる。
私は自由研究と聞いて虫の標本作りが流行った世代ではない。そもそも「虫取り」という行為がギリギリ残っているか否かの世代だった。虫取りは、ゲームの中の出来事。カブトムシやクワガタをカッコいいと思えるのはゲームのグラフィックがそう見せているからであって、現実世界で土まみれの虫を見ても心は昂らない。2次元の世界を先に知ってしまうと、この事象は高確率で起こりうるのだ。ゲームの進化が夏の風物詩の1つを殺してしまったのかもしれない。
ここでもう一度、私は扇風機に首を突っ込んでみる。そのポッカリと空いた空洞に「夏」という膜を創り、それを頭から破ることで冷涼感とほんの少しの背徳感を味わえるからである。私は夏の楽しさをまた一つ生み出したのだ。





夏だ。
だが、季節を語る必要は無くなり、今は息の白さに飽きる日々を過ごしている。

私は、自ら創り上げた階段から飛び降りる事しかできなかった。


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