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ドラゴンボール原論

 僕が小学校に入る少し前の昭和59年の終わりに世界的な人気作品となった鳥山明の「ドラゴンボール」が週刊少年ジャンプで連載が開始され、僕が高校2年の春、平成7年に約10年続いて誰も終わることなんて想像もしてなかった中、まるで来週も普通に続きがあるような形で連載が終了した。この論考はそんな僕の人生のもっとも豊かな時代に並走する形で時代を駆け抜けた希代の名作「ドラゴンボール」について書かれたものである。
 今となっては知っている人も少なくなってしまっているかもしれないので作者鳥山明のデビュー作「ドクタースランプ」についても少し触れておく。「ドクタースランプ」は鳥山明が週刊少年ジャンプで初めて週刊連載をした漫画で一話読み切り型のギャグマンガであった。「んちゃ」とか「キーン」とか主人公(正確には主人公則巻千兵衛博士が作ったアンドロイド)である則巻アラレが発するセリフで一躍日本中に大ブームを巻き起こした1980年代前半を代表する週刊少年ジャンプの看板作品だった。そんな「ドクタースランプ」で20代半ばにしてアニメや関連商品の売上やその印税だけでもう一生働かなくても生きていけるだけのお金を稼いだ鳥山明であったが、「ドクタースランプ」が一話完結で毎回のネタに困って漫画を描き続けることに疲れ果てて、それでも彼は週刊少年ジャンプのドル箱スター漫画家だった為、周りの大人たちがそう簡単に「ドクタースランプ」の連載を辞めさせてはくれなかった。皮肉にもこの現象は「ドラゴンボール」の終了の際にも更に規模を大きくして彼自身の身に起こったことでもあるのだが……。
 それでも鳥山明自身はもう「一話完結のギャグマンガ」を描いていくことに関心を持つことが難しくなっていて、「次はストーリー漫画を描きたい」という気持ちになっていった。正直なところ面倒くさがりな性格だったため週刊誌の連載はもう辞めたかった、というのが鳥山明の本音だったらしいが、前述のとおり、「ドクタースランプ」はもう大きく経済を動かすまでの現象でもあったため、漫画家鳥山明で食べていきたい大人たちの欲望は彼を縛っていた。当時の鳥山明の「ドクタースランプ」にも「ドクターマシリト」として描かれるほど、鳥山明に強い影響を持っていた編集者鳥嶋和彦は「「ドクタースランプ」を辞めたいんだったら、終了後3ヶ月以内に新しい作品で連載を始めるのだったらいいよ」と、渋々「ドクタースランプ」の連載終了を認めたくらいであった。
 とまあ、こんな感じで伝説的漫画「ドラゴンボール」は昭和59年少年ジャンプ51号から連載を開始したのであった。ここからはかなり個人的な「ドラゴンボール」の見解が入っていくので、一般的な、もしくはそれぞれの読者が抱く感想とは異なる部分も多くあるかもしれないが、そこはご了承頂きたい。物語は全くの鳥山明のオリジナルの世界観の中で繰り広げられていく……体裁は取っていたが主人公の孫悟空という名前からも分かるように、中国の16世紀の小説「西遊記」を基に連載当初は描かれていた。ブルマが三蔵法師、ウーロンが猪八戒、ヤムチャが沙悟浄、みたいに。牛魔王はそのまんまだし。しかし、単なる模倣で終わらないのが希代の漫画家鳥山明たるゆえんで、そこに七つ集めればどんな願いも叶う小さな玉「ドラゴンボール」を集めていく冒険アドベンチャーとして物語の大筋は進められていく。しかしながら最初のブルマと孫悟空との出会いからピラフ一味とのくだりまでを実際に読んでもらえば分かるように(意見は分かれますが)、ここまででとてもあの世界的な人気作品となっていく伝説的漫画「ドラゴンボール」の面白さを感じる人は少ないでしょう。いやむしろいつ打ち切りになってもおかしくないくらいに、こう言ってはなんだが「凡作」のレベルの内容でしかない、と個人的には思ってしまう(意見分かれますね)。実際に鳥山明も連載終了後に語っているように週刊少年ジャンプの毎週の読者アンケートでは連載開始当初は「あの「ドクタースランプ」を描いた鳥山明の新作」ということで期待も込めてランキング上位にあったらしいが、途中からほとんど最下位に近いランクに位置し始めて、ピラフ一味のエピソードで打ち切る話さえあったほどだったという。しかしながら、これは僕の想像だが、あれだけの人気作品「ドクタースランプ」の代わりに連載を開始した「ドラゴンボール」があっさりと打ち切りという形で終わらせてしまうと、おそらくアニメ化も「ドクタースランプ」の後にはもうすでに決まっていて、ここも大人の事情で経済問題としてそう簡単には「ドラゴンボール」に失敗してもらっては困る、という集英社、少年ジャンプの親会社やアニメの東映動画、フジテレビなどの大企業の思惑、そして何よりも作者鳥山明のプライドが許さなかったのだと思う。そしてここから平凡な作品で終わりそうな流れで来ていた物語が、誰もが知るあの名作へと生まれ変わっていくのであった。
 ここで個人的な論考をさせて頂く。始まりからピラフ一味のくだりまでを「凡作」と評した訳だが、その中でその後の名作となる「胎動」のような描写が数は少ないがあったことを示しておきたい。まずはフライパン山で亀仙人が燃え盛る炎を消そうとヒョロヒョロと壁に上がってふらつきながらなんとか立った場面。それを見ていたウーロンが「こりゃダメだ」と言った次のページで、(出来れば見開きにしてもらいたかったが)設定では三百歳を超える超高齢者のお年寄りのよぼよぼの肉体が、大きく息を吸って「ハッ」と息を吐いた次の瞬間、どんな屈強な大男にも敵わないであろう鍛え上げられすぎた巨大な筋肉に身を包んだ亀仙人がひとつひとつのセリフに言霊を込めて「か……め」「は…め…」「波‼」でそれまでのドラゴンボールの中では見たこともない巨大な気功波が亀仙人の体内から突き出した両手を経てエネルギー波が燃え盛るフライパン山全体を覆う炎めがけて発射され、見事、炎をフライパン山もろとも吹き飛ばすという、圧倒的な描写がなされた。個人的にはこのかめはめ波の描写を超えるものは、悟空が大きくなって初めて優勝することになるマジュニアとの天下一武道会の決勝戦までなかったように思う。いや、その時の悟空の放った超かめはめ波よりある意味、鳥山明がまだバトルなど描きなれていない分余計にその洗練されてない「野生」のかめはめ波感が却って迫力があって好きかもしれない。皆さんも是非このはじめの亀仙人のかめはめ波の凄さをコミックスなどで確認していただければ、僕の言いたかった事の半分くらいは伝わるような気がします。しかし、この時点ではあくまでもこのかめはめ波の描写は単なる物語上のエピソードに過ぎず、後の名作漫画への直接的な橋渡し、というわけではなさそうなのはその後の、お色気シーンや、こういっちゃなんだが、個人的に一番ドラゴンボールでつまらないと思うエピソード「兎人参化」やウサギ団の話を見てもらうと分かってもらえることと思う。おそらくここら辺の話を書いている途中で、鳥山明やその周辺では「おい、ひょっとしたらこの漫画打ち切りになるかもしれないぞ」という不穏な空気が流れていて、そのダークオーラが本当にここら辺の話を読んでみてもらうと分かるのだが、三流のどこかの雑誌の漫画レベルにさせてしまっているのではないだろうか?ここら辺で毎週ジャンプは買うけど「ドラゴンボール」を読むのを止めた読者はかなりいたのではないか、と思ってしまう。個人的意見なので、異論はあるかもですね。
 長々と書いてしまったが何の話……、あ、そうそう。ドラゴンボールの初期はつまらないが、後の名作漫画に繋がる胎動のようなシーンを取り上げていたんでしたね。そのもう一つは初期の最後のエピソード「ピラフ一味」のところです。ここではドラゴンボールで世界征服を企むピラフ一味に捕まった悟空やブルマたちが金属や強化ガラスで囲まれた檻に閉じ込められて絶体絶命のピンチを迎えているところでしたね。どうやっても脱出できないで半ばあきらめていたその時、悟空がふと夜空を見上げると、そこには大きなまん丸い満月が昇っていました。悟空は「じっちゃんが言ってたけど、満月の夜には大きな猿の化け物が出て大暴れするから決して満月の夜には外に出ちゃだめだぞって言ってたな」とか人ごとにようにここでは言ってますが、何を隠そう悟空こそがその満月の夜に出る大猿の化け物でじっちゃんの孫悟飯を踏みつぶして殺した張本人でした。そうとも知らずこの夜も悟空は満月を見て……、大猿の化け物になっていくのですが、ここの描写を見ていて思ったことは、もう既にこの化け物だけが遥か先のベジータとか出てくる時の生きるか死ぬかのシリアスな名作漫画のドラゴンボールの空気感を持っている、つまりその話が描かれているよりも先の未来が出てきている、という印象を受けました。おそらく作者の鳥山明の無意識の中からちゃんとベジータやフリーザが出てくる未来のドラゴンボールの展開が一瞬だけ零れ落ちたかのような、そんなまさに未来の方向性を示した画期的なエピソードだったように思えます。この大猿の化け物の描写でドラゴンボールがただのすぐに打ち切りになってしまうような漫画とは違う、得体のしれない生命力を持った稀有な作品だということが示されたのではないでしょうか。それは図らずもウーロンが悟空が大猿の化け物からシッポを切られて裸になって寝ている横で「それにしてもいったいこいつなんだろう……宇宙人じゃねえのか?」のセリフから読み取れるように、おそらく作者の鳥山明も顕在意識では、大猿化した悟空に描きながら圧倒されて、自分でも未知の可能性を持ったキャラとして魅了され始めた、もしくは「この漫画行けるかもしれない」との手ごたえを感じたのではないでしょうか?実際後のエピソードで明かされるように悟空はサイヤ人という宇宙人で……という設定でバトル漫画の名作としてのさらなる発展に貢献していくのである。
 ピラフ一味を退けてドラゴンボールも散り散りになってブルマたちと別れた悟空が向かった先は亀仙人のところだった。そこで初めは嫌な奴として描かれるも後に大親友として物語になくてはならない存在となるクリリンと出会い、一緒に天下一武道会に出場するため修行するのだが、個人的にこの亀仙人の修行のエピソード、昔からすごく好きなんです。なんか大きな目標に向かって、悟空たちが懸命に努力して、想像以上に強くなって武道会で大活躍していくサクセスストーリーが見ていて気持ちいいですよね。少年漫画の王道というか、現にこの天下一武道会辺りから読者アンケートで段々と順位が上がっていって1位になってそれはなんと、連載終了まで変わらずずっと1位だったそうです。まあ、その後の神展開を見れば誰もが納得するのではないでしょうか。
 そんな天下一武道会で前作「ドクタースランプ」に並ぶ人気作品となった「ドラゴンボール」ですが、ここからさらに加速度的に、異次元の面白さを纏って物語が進んでいくことになります。そう、レッドリボン軍編です。僕は丁度この頃小学二年生くらいで、純粋な冒険好きな少年でしたから、悟空が世界中を旅してレッドリボン軍と戦いながらドラゴンボールを集めていくこの辺りの展開が、物凄く好きでアニメのエンディングテーマ曲、ブルマを背景に流れる神曲「ロマンティックをあげるよ」とともに、猛烈なノスタルジーを感じさせますね。とにかく鳥山明の無意識が描いていくその世界観に圧倒されます。この辺りで読者は完全に悟空と一体となってドラゴンボールの世界に否応なしに引きずり込まれていったのではないでしょうか。当然のことながら僕もそんな一人です。未だにドラゴンボールのこの悟空の少年時代この冒険譚が大好きだっていうオールドファンは多いらしいです。まだ本格的なバトル漫画になる前の、後ほど書きますが、作者である鳥山明が伸び伸びと好きなように、強制されるのではなく、好きな漫画を描いてそれが神がかって面白い、奇跡のような展開をぜひ読んでもらいたいですね、読んでない人には。
 ちょっと大げさに書いたので、この辺りも賛否両論あるかと思いますが、個人的には大好きなところです。具体的にはどのようなところがそれまでの天下一武道会から、進化していったかということに触れていきたいと思います。まず、世界観が圧倒的に広がって、レッドリボン軍という悪の組織を登場させることで、読者にドラゴンボールの世界の支配構造を見せることで、立体的に読者の頭の中に物語の起動装置が埋め込まれる役割を果たした、ともいえるということです。現実の世界でも、歴史を見れば分かるように、権力を持った王族だったり、軍だったり、いろいろしますよね。そういう大きな悪の組織を物語に注入することで、いろいろな世界の断片に説得力を持たせることが出来て、この現実の世界の地続きに、「ドラゴンボール」の世界があると、少なくとも子供たちをその世界に引きずり込むことに、成功したと思います。
 このレッドリボン軍編のエピソードは今思えば、純粋な時代の健全な冒険譚を鳥山明が王道ど真ん中で描き切ったこのエピソードだけでも、一つの名作漫画として歴史に残るのではないか、あのみんながよく知っている超サイヤ人の悟空が繰り広げるバトル漫画の金字塔としての「ドラゴンボール」ではなく、「ワンピース」のようなジャンルの漫画として、成立させても何の遜色もない、面白い漫画じゃないかと個人的に思ってしまいます。悟空の目が世界に開かれて、それと共に読者も悟空のドラゴンボールを集める冒険に一緒になって出かけていく、あのワクワク感がたまらないですよね。いきなりシルバー大佐を倒して、悟空の亀仙人の下での修行の成果が、もうワールドワイドなものとなってしまっていた、という描写がさりげなく描かれて、読者にこれから始まる大冒険を予感させて、固定層をがっちりキャッチしていきます。次のホワイト将軍での「マッスルタワー」なんかは当時子供たちの間で流行し始めていた「ファミコン」のアクションゲームを彷彿させるエピソードで、僕もここら辺の展開とか、好きでしたね。そんなおもちゃもあったことを思い出しました。でも、どう考えてもあの外観と中のムラサキ軍曹のいたエリアとの空間的な調合性は取れていない気がしますが、それは今となってはご愛敬ということで……。そして、ここでたぶん作者は何も考えてなかったでしょうが、後の物語の伏線(?)となっていく重要な世界観が登場します。それは「人造人間8号」が登場するからです。この時点では「ドクターゲロ」など存在していたことになっていますが、全く描かれていませんし、あのような「人造人間編」のようなシリアスな展開とは全く異なる物語ですが、これもレッドリボン軍を登場させることで、世界観を広げて、あとでいくらでも膨らませることが出来てしまう設定を作者の鳥山明がほとんど無意識に行って、そこがこの人の天才たる所以なのですが、緩い設定であるが故の、後の名作への飛躍も可能となっていく、常人では真似のできない何か業のようなものを持っていますね、この鳥山明という漫画家は。
でもまだこの時に登場する「人造人間8号」は後の戦闘タイプの人造人間という設定ではなく、心優しきほのぼのとした牧歌的な当時のドラゴンボールの世界観にピッタリなキャラで、癒し系の存在でした。まあ、最後は怒って、ホワイト将軍をぶっ飛ばすくらいのパワーは持っていましたが。で、この後の展開もなんか、僕個人としては大好きな流れですね。ジングル村でドラゴンボールを見つけた悟空は、壊れたドラゴンレーダーの修理のために、ブルマのいる西の都へと旅立っていきます。
 何も知らない、田舎者の悟空にとって大都会の西の都は、強烈なインパクトを与える……とういうか、読者が悟空を通して、大都会の西の都と言う環境で悟空が出会うエピソードが、なんか眩しいですね。個人的に、一番ドラゴンボールが純粋に楽しかった時代というか、好きだった話ですね。ここから、ブルマと合流した悟空は、さらにカメハウスでクリリンとも再開し、海底洞窟や海賊の基地に眠る、ドラゴンボールを巡って、ここまで出てきたドラゴンボールの敵の中で最強と言ってもいい、ブルー将軍と戦ったりします。いや、ほんとここに冒険漫画としての、ドラゴンボールの頂点あり、ってかんじですね。ほんとこの海賊基地とか好きでした。今もドラゴンボールの正当な後継者でもある「ワンピース」で海賊の物語してますけど、(僕はほとんどワンピース知らない派ですが)やっぱり、海賊の物語って、純粋に面白いですね。いや、鳥山明が描くこの世界観に出て来る、この感じが僕はたまらないです、ホント。なんかこの人の描く世界観はとてつもない奥行きがあって、子どもの想像力が刺激されて、このタッチで描かれたら、面白くないわけがないだろうっていう、単純なワクワク感……すごいですよね。伝わっているかな、この感じ。で、さらにこの後、ファンを喜ばせる展開、前作の「ドクタースランプ」のペンギン村まで出して、アラレちゃんと悟空の夢の競演までさせてしまう、このサービス精神、たまりません。しかし、峠を越えて終わらせた「ドクタースランプ」より、この時点でもう「ドラゴンボール」の世界観が読者を遠くに連れて行ってしまっているから、アラレちゃんからは「ワクワク感」は戻って来なかったですね。そこら辺の、時代を感じ取って描いていく、20代後半の脂の乗り切った当代一の漫画家鳥山明は、やっぱり神がかっていましたね。この後、あの「最強キャラ」ブルー将軍をベロの一撃で倒してしまう、本当の最強キャラ「桃白白」を登場させてきます。
 この「桃白白」こそ、ドラゴンボールを永久に変えてしまうエポックメイキングな存在なのです。それまでは、レッドリボン軍が残虐非道な悪の組織だったとしても、そこまでその非道さは伝わってこなかった、80年代のライトな感覚的な世界観が根底にありましたが、彼の登場で、時代はより戦闘モードに入っていく、そんな感じがします。「時代」とあえて書きましたが、それは現実の僕らが生きてきた「昭和」が終わりかかっていて、「平成」が始まるあの1987年から1988年にかけての時代のことです。一流の芸術家はその時代性をその作品に無意識に反映させるそうですが、この鳥山明というのちの世界的な漫画家もその「時代の空気」を敏感に察知して、「ギャグマンガ」的な世界観から、戦闘モードへと切り替わっていく「バトル漫画の傑作」ドラゴンボールへと可変させていきました。読んでもらうと分かりますが、この世界一の殺し屋「桃白白」は本当に、平和なこれまでの世界観とは全く異質な存在で、完全な善人であった、聖地カリンを守るボラを、息子のウパの目の前で無慈悲に惨殺します。これで、読者も緊張感が走り、「これまでのドラゴンボールとは決定的に流れが変わった」とほとんどの読者、子供の言葉に出来ない無意識に感じ取らせることに成功します。ここら辺の話の流れの持って生き方が、本当に神なんですね。必然というか、時代はもうそっちに流れて行っているんだ、もう「ドクタースランプ」じゃあないんだって。いつまでも「牧歌的な昭和」にしがみつきたい、日本人の集合無意識に強烈な一撃を食らわせることに、この時鳥山明は成功したと言っても過言じゃありません。現にドラゴンボールに限らすこれ以降の大ヒット漫画とかは、モロに暴力的で残酷でグロテスクさを帯びていっていますからね。「寄生獣」や「ベルセルク」「進撃の巨人」「鬼滅の刃」に至るまで。ドラゴンボールというこの世代の最大のヒット作がこの時代の流れを完全に先駆けて読んでいったことに、どうしようもないものを、感じてしまいます。僕は極めて平和主義者なので。グロテスクなマンガは受け付けない性格で。でもドラゴンボールはこの後、ひたすら戦い続ける宿命を帯びていきます。そして、僕の一番好きだったドラゴンボールの時代は、本当に昭和とともに終わりを告げていきます。あの純粋な冒険漫画としてのドラゴンボールのことですね。
 話のほうに移りますと、桃白白に一回どどん波でやられた悟空は聖地カリンにそびえたつ「カリン塔」に登って、頂上で猫の神様「カリンさま」に超聖水を飲ませてもらって、修行を受けて、強くなって戻って、桃白白を倒します。ここからは本当にエスカレートしていきますね。バトル漫画に舵を切ったドラゴンボールは。レッドリボン軍を壊滅させ、占いババでの祖父の孫悟飯との再会は僕も好きなエピソードですが、三年後の天下一武道会での天津飯らの登場から、僕の中で今読み返すと、物語の流れが鳥山明の中で完全に「バトル漫画」と決まったみたいで、彼の「仕事感」が漏れて来るみたいな印象を受けます。言い換えるともう鳥山明の純粋な冒険は「終わった」のだと。彼も連載終了後に「バトル漫画は一回流れが決まると、書くことは決まっているのですよね」と語っていたように、ここから巷のサラリーマンと同じ「仕事」としてのドラゴンボールが描かれていくことになります。あくまで僕個人の感想ですが、どうしてもそのように感じてしまいます。それでも面白いは面白いんですけどね。
 天下一武道会は天津飯の優勝で決まって、さあ次はどうなる? というところで桃白白の登場でもうあの牧歌的な流れに戻れなくなったドラゴンボールは完全に後戻りできない、時代の要請か「クリリン」という作中屈指の脇役というと語弊がありますが、「絶対に死なないであろう」キャラを殺してしまいます。ここで一気に、というか読者全員に「あ、完全に変わった」と認識させます。そこからはこれまでの平和が一切なかったかのような、別次元の漫画になり、鳥山明自身も「一回は完全な悪」を描いてみたかった、その願望通りにピッコロ大魔王を登場させ、冒険漫画ではなく、バトル漫画への「冒険」へと足を踏み出していきます。嫌いじゃないんですけど、もう自由な想像力は作者も読者も働かせる余地はなくなりましたね。完全な「戦闘モード」に入ったこの漫画から。でもみんな大好き「ドラゴンボール」ってなったのはまさしく「時代の要請」だったのでしょう。丁度このピッコロ大魔王あたりから、悟空が大人になっていく変わり目が「昭和」から「平成」へと現実世界が変遷していくあたりで。まるで、悟空が少年から大人へと変わっていくのが、僕ら自身も、時代も世の中も、「大人」になっていかざるを得ない、そんな感じを受けますね。昭和という巨大な共同体が崩壊して、守ってくれるはずの国も瓦解していく、混沌とした剥き出しの「平成」へと変わっていく、その中で「大人」にならないと、生きていきにくいぞ、と悟空の成長していく姿からそんなメッセージも今思えば受けたような気がします。その当時は全く分かりもしなかったことですが、今振り返るとそのような非可逆的な時代の流れの変わり目に、ドラゴンボールは劇的にその内容を変えていったのですね。
 正直ここからは完全にエスカレートしていくだけの話の流れなので、「原論」としてのドラゴンボールの評論はしにくいです。サイヤ人、フリーザ、人造人間、魔人ブウとひたすら悟空は戦い続けて強くなって……って流れなので。個人的な感想を各エピソードに少し加えるくらいにします。
 バトル漫画のドラゴンボールも当然のように好きですよ。悟空が宇宙人でサイヤ人って設定も神がかっていて、バトル漫画の「ドラゴンボール」の冒険が始まっていくあのラディッツからベジータ、そして僕が少年時代の冒険譚を除けば、一番好きな展開、「ナメック星」でのフリーザたちとのドラゴンボール争奪戦。ここが一番好きっていうドラゴンボールのファンはかなり多いんじゃないでしょうか。ナメック星の世界観とかそこのエピソードもかなり神がかっていますよね。そして、個人的に少年漫画の頂点ともいえる「悟空の超サイヤ人」化。ここは、掛け値なしで最高です。散々少年時代の悟空が好きだとか言ってますが。別の漫画だと思えばいいやん。本当に長い漫画の歴史で、ここが頂点だと思っています。鉄腕アトム、あしたのジョー、北斗の拳、スラムダンク、ワンピース、鬼滅の刃、など漫画の歴史はこれからもずっと続くでしょうが、いろいろな意味で、この「悟空の超サイヤ人」化を越える頂上はないと思っています。伝わるかどうか微妙な感じですが。それくらい、この「悟空の超サイヤ人」化はとんでもないインパクトを、本当に時代を突き動かしたんじゃないかって、思うくらい衝撃的でした。これをさらっとかけてしまう鳥山明は神様の上の神様、ドラゴンボールの世界観で言えば、界王様の上の界王神の上の大界王神みたいな領域に行ってしまわれた、とも言えますね。
 今漫画で読めば、みんな「超サイヤ人」とか当たり前のように、知っていますが、これが出てきたとき、どれだけの読者が興奮して、熱狂したことか。本当にトップオブザトップでしたね、この時点で、ドラゴンボールは。そして漫画史に永久に刻まれる頂上にたどり着いた。そう言っても過言ではないと思います。あの時代の空気感はそんな感じでした。って中学生くらいだったので、許してください。でもそんな感じもあると思います。
 でも悲しいかな。登り詰めた頂上は必ず降りていかなければならないのも、宿命で。人造人間編はフリーザ編で極めた神レベルを少しずつ、削るように……でも人造人間17号、18号のスタイリッシュなデザインは相変わらず神がかっていましたね、鳥山明は。そして、完全体のセルに立ち向かう、これまた僕がドラゴンボールで一番好きな「超サイヤ人の孫悟飯」。めっちゃ格好いい。この頃少年ジャンプでドラゴンボールのキャラの人気投票していたのを覚えているのですが、何とこの金髪のピッコロの紫色の服と、白いマントを身に付けた「超サイヤ人の孫悟飯」が主人公の孫悟空を抑えて1位に選ばれるという快挙を成し遂げていました。本当にビジュアル的にドラゴンボール史上最高だと思っています。神がかっていましたね、この頃の孫悟飯は。強さも、ビジュアルも。何枚も絵を描いたりしていました。そして、伝説の親子かめはめ波で完全体のセルを倒して……。かなりの人が後から思ったこと。反対意見もありますが、言います。
「ここで終わっていれば、本当に歴史に残る最高傑作だったのに──ドラゴンボールは……」
 そうなんです。ドラゴンボールはセル編で終わるべきでした。しかし、冒頭にも少し書いたように、社会が、お金が、大人がそれを許してくれなかった。もちろん、人気ナンバーワンの作品でしたので、読者も「セル編」の続きが読みたいと思っていますし。こんなこと書いてる僕も当時何も考えていない中学生だったので、続きが読みたいだけの無責任なイチ読者でした。
 でも続く「魔人ブウ編」が本当に中途半端で。それまでの神がかったパワーは完全にドラゴンボールから失われていましたね。その点、先ごろ映画が公開されて、再びブームを巻き起こした同時期に連載され、ドラゴンボールとともに少年ジャンプの史上最高の発行部数650万部にも貢献した「スラムダンク」とは大違いですね。「スラムダンク」は本当に最高の試合「山王工業戦」で終わりましたもん。ひょっとしたら、「スラムダンク」の作者「井上雄彦」はドラゴンボールの無残な姿を見て、「一番いい時に終わるのが一番いい」と思ったのかもしれません。
 まあ、ここらへんも賛否両論あるかもですが、個人的には「魔人ブウ編」はいらないと思っています。鳥山明もここら辺になると、本当に「早く連載をやめたい」というオーラが紙面から滲み出てくるような、気の抜けた展開、描写が増えていきます。正直、当時は気付いていませんでしたが、僕もドラゴンボールは当たり前にあり過ぎて、完全な権威として存在していたので、それがどんなに面白くなくなっていようが、見て見ぬふりをしていた、気付かないくらい、麻痺していた、とも言えるのかもしれません。読んでもらえば僕の言っている意味が少しは理解できるかもしれないですね、まだ読んでいないのなら。全く違うことに気づくはずです、セル編までと。まあ、見方を変えれば、鳥山明が、「職業人」としての漫画家から解放されて、素の人間「鳥山明」に戻るためのソフトランディングとしての、意味合いもあったのかもしれないですね。あの「セル編」までの最高傑作レベルの位置から急に終わるのは、あまりにも描いている本人も含めて急すぎて、返って身体に悪いから、いろいろな方面で、少しずつ、時代の先端から降りていく、猛スピードで走り抜けた、その10年を終わらせるために、必要な期間、それが「魔人ブウ編」だったとも言えるかもしれないです。ここまで「魔人ブウ編」をけなしといていうのもなんですが、最後のサタンの呼びかけで地球人から元気玉が集まるところから魔人ブウをその元気玉で悟空が倒すところはさすがに、読みごたえがあって、鳥山明もせっかくのドラゴンボールのラストだから、ということで、スイッチが入ってかつての名作の雰囲気が少しだけ出ていたことは、僕自身良かったと思います。一ファンとして。
 そして、1995年5月ドラゴンボールは約10年の連載に終止符を打ちます。当時僕は高校2年生。この時のことは本当によく覚えています。世間では阪神大震災やオウム真理教の一連の事件があった年ですが、個人的にも青春真っ只中、一番勢いのある、感受性の豊かな時期。そんな時期に、日常であり続けた「ドラゴンボール」が終わるんですから。僕以外の多くの読者が衝撃を受け、ある意味社会現象的にその「連載終了」が話題になったりしました。個人的なエピソードを少し。このドラゴンボール最終回の前の回に鳥山明がいつも次回の予告なんてめったにしないのですがやっていて「次回、何かが起こる。たいして期待せずに待て」とか書いていたのですが、僕はそこは読んでなくて。そして最終回の号の少年ジャンプ。表紙はもう知っている人も少ないでしょうが、悟空が初登場時に着ていた、青と紺の胴着で大人の姿のまま神龍の乗っている、コミックス第一巻の扉絵のままで掲載されていました。勘のいい人ならここで「最終回」なんだな、と気づき、実際めくってその最終話の扉絵にも、鳥山明自身が「……というわけで最終回です」と書いてありましたが、なぜか僕はその日に限って、そこは読み飛ばして、いつものように話を読んでいて、最終回とはつゆ知らず、悟空が魔人ブウの生まれ変わりウーブと筋斗雲に乗ってこれから修行して、また強敵が出てきて、次はどんな展開が待っているのかな、と最後のページめくるまで、たぶん日本中で僕一人かも、くらいに全く終わることを想像してなかったものですから、最後のページで登場人物全員集合で「ありがとう、さようなら」と書いてあるのを見て心底驚いて、地下鉄乗って学校から帰っていた、その電車内で、周りに結構人がいたのですが、本当に大きな声で「えっ、終わるん?」とひとり言ってましたね。それくらい、終わることなんて考えてなかったです。ドラゴンボールが。振り返ってみれば、魔人ブウ編は面白くないと、言えますが、リアルタイムで読んでいると、やっぱり、あの「ドラゴンボール」が終わることはショックなことでした。今の「ワンピース」が終わってしまうような感じと言えば、ちょっとは伝わるかな。まだかろうじてスラムダンクは続いていたので、山王戦でしたか、しばらくはジャンプ買って読んでましたが、そのスラムダンクも、もう一個読んでいた「ドラゴンクエスト──ダイの大冒険──」も翌年の1996年に連載が終了して、僕の中でジャンプを買う習慣は完全になくなりました。ワンピースもナルトもジャンプでは読んでいないです。それくらい求心力はありましたね、ジャンプにドラゴンボールが連載されていたあの時期。
 最後はしんみりとした思い出話になってしまいましたが、この希代の名作漫画「ドラゴンボール」を自分なりの、読んできた解釈で評論してみたのですが、どうだったでしょうか? いろいろと思うことを書いてみました。まあ、でも小学1年生から高校2年生までの10年、本当に自分の、あの当時の同世代全員、ドラゴンボールと一緒に成長してきた、ひょっとしたらかなり幸運な世代、氷河期世代とか世間では言われたりしますが、いい時代に子供時代を過ごせてよかったかな、と思ったりします。まあ、未だにかなりのお金を稼いでいるらしいドラゴンボール。ゲームとか、アニメとか、映画とか。ちっとも昔の漫画、アニメって感じがしないですね。やっぱり悟空とその仲間たちの戦いの物語は、僕はこの評論文の中ではあまり評価してなかったりしますが、世界中に永遠に消えない炎を灯していって、多くの人に勇気や生きる力を与えたのだったら、やっぱり「時代の要請」にあの当時も、今も、そしてこれからも応え続けていく永遠の名作になっているのかもしれません。やっぱり、みんな大好きドラゴンボール。孫悟空は永遠のヒーロー。
 これにて私、猫の恩返しによるバトル漫画の傑作ドラゴンボールの評論文「ドラゴンボール原論」を終わります。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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