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廃屋にて【小説】

 ――グラスコップが涼しげにテラスのテーブルの上に置かれて、ハーブティーに庭の木々が映っている。……きっと、ここに確かな幸せの刻があり、誰かと誰かの想いが優しく交差していたのだろう──
 
 うっそうと生い茂る木々の間に、天からの光のように、陽が差し込む。僕が一歩、また一歩と歩を進めるごとに乱雑さを増した枝が、まるで侵入者を寄せ付けないかのように前方を遮る。それでも、しばらく枝をかき分け、アブを手で払いのけながら、前に進んでいく。少し陽が傾きかけたころ、ようやくかき分ける枝の向こうから、穏やかな光に照らされた、緑の空間が見えてきた。最後の枝を払いのけ、僕はそこに足を踏み入れる。そこにはまだ薄く白いペンキが残る、古ぼけた西洋風の二階建ての廃屋があった。こげ茶色の古い木の枠でできた二階の窓が少し開いていて、ここからでも中の様子が見える。西洋絵画らしきものが小さく見えて、風の音とともに、パタン、と窓が閉じ、上から土煙が流れるように落ちてきた。
「お前たちには……届かない日々……」
 どこからともなく声が聞こえてきて、僕は辺りを見回したが、 誰もいない、風が木々を揺らす音しか聞こえない。
「気のせいか……?」
 ただ、ここまで深く立ち入ったからには、前に進むしかない気がして、庭には長年放置されていたからか、何種類もの背の高い雑草が生い茂り、それを手持ちのナイフで切って強引に歩を進める。
「悲しいことさえ知らずに生きる者に……どうして、分かるだろう……」
また、聞こえてくる。今度は空耳ではなく、直接、心の奥深くに響く声だった。……ようやく、雑草のからみなどをすべて取り除いて、白いかつての屋敷の前にたどり着いた。庭のテラスだった所には、大きな樹が倒れ込んでいて、そこからまた新しい芽が生えて、光に向かって伸びていく。……小さな白い蝶が何羽も新芽のまわりを飛んでいる。不思議と、そこだけはさびれた感じはしない。ただ、奥の白い洋館からは何とも言えない、重低音が暗く響いてくる。
「あの人だけが……、私のことを受け入れて、理解してくれたのに……」
 ……声が、今度ははっきりと聞こえてくる……。
──そんなに霊感がある方ではないのだけどな──
悲しい声の響きと、大木が倒れた後の命が芽吹くコントラストが妙に胸を締め付けて、切なかった……。大木を越えて、もう少し館に近づいてみた。ドアはまだペンキの白い部分を残したまま、立てかけられていたが、半分、家の中の様子が見えた。
 ──怖いな……でも、何か不思議と、呼ばれているような──勇気を出して、中に入る。
「いつも、そのソファで……、あの人は、私のためだけに……、 物語を聞かせてくれた……」
 ……、とても悲しい声が、玄関に流れてきて、その音色で僕も今まで感じたことのない、とても大切な何かを失った、大きな悲しみを味わったような、そんな錯覚を覚えた。玄関を入って、中のリビングは埃まみれになっているとはいえ、きちんと整理整頓がされた、趣味のいい空間に思えた。主がいなくなって、どれくらい経つのだろう……。そんなことを考えながら、リビングの隣の部屋に入った。そこは寝室だった。大きなベッドが二つ並んでいて、何故かひとつも埃が落ちてなくて、まるで毎日誰かが掃除をしていて、今でも毎晩、ここで寝ているかのような、そんな生活感があった……。しかし、こんな森の奥深く、人が住んでいるような気配もなく、しかも、この寝室以外は、ほとんど廃墟に近いというのに……。時間の感覚が狂ってきて、自分が今、どこにいるのか、わからなくなってきた……。不意に後ろのドアが、ギィー…と音を立てて閉まった。さすがに驚いて、後ろを見てみると、そこには、さっきまではいなかった、髪の長いフランス人形が横たわっていた……。
「……あんなにも……、愛し合っていたのに……、何故…、私には……、あの人の子どもはいないの……?」
 ……辺りは日が沈み、部屋の中も薄暗くなっていく……。僕は何故だか分からなかったが、どうしてもその場を離れることが出来なかった。……叶わない夢……、手にしたつもりの幸せも……、過ぎてしまえば巡る命の環の中で、誰にも知られることなく忘れられていく……。想いがすべて、この館には残っていて、見つけられるのをずっと待っていたのかもしれない。そして、僕にはそんな大切な人との想い出もない、空っぽのまま道に迷い……空っぽのまま、ここへと導かれて、誰も知ることのなかった人の残りものを……、存在した証として、空の容器に入れる……。悲しみが奥に沈んだまま、僕はそのままベッドに横になっていた…… 。
「あなたが来るのを、ずっと待っていたのよ……」
 眠りに就くかつかないかで、またあの声が聞こえてきたが、まどろみの中さっきまでとは別人のような穏やかな声のような気がした…… 。
 
 ──昼下がりのテラスで男女がお互いを見つめながら、微笑み合っていた。女の肩に一枚の葉っぱが落ちて止まり、男は優しくそれを手にとって、女の前で日にかざしている。女はそれを見つめて、男に何か語りかける。男がやさしく微笑んで隣に座りなおす。しばらく二人は寄り添い、重なる影が木漏れ日に揺れていた──。
 ただそれだけの情景だったが、二度と戻らないが故の儚い美しさ、何とも言えない温もり、そしてそれに続く深い悲しみが走馬灯のように僕を過ぎていった……。本当の愛って、きっとこういうものなのかもしれない、僕はその情景を見て、不意にそう思った……。
 
「私たちを見つけてくれて……ありがとう……」
 そんな声が聞こえて、夜がそのまま更けていった……。窓から優しい光が差し込んでくる……。気がつけば、朝だった……。 フランス人形が部屋から外の庭が見える窓辺を背にして、微笑んでいた。

                               (完)
 
 
 
 

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