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#3_自分の感受性くらい


#1でも書いたテーマの続きっぽい話。

僕の中でここ数日、このテーマをもう少し深ぼった時に
ちょっと気になるものがあったので再考してみる


「あ、これかわいい」


なんの変哲もない、よく耳にする言葉。
でも、この言葉を聞くシーンがあまりに増えすぎている気がする。

ウィンドウショッピングの時?女性同士でお互いの服をほめている時?
これはまだ分かる。なんならこれが自然な使い方とすら思う。

「この形がかわいい」
「色がかわいい」
「かわちい」←これに至っては本当に意味がわからない

SNSに生かされていると言ってもいい現代、
どこを開いても「かわいい」で表現できてしまうもの、多すぎる。

逆にいえば、モノづくりをするにあたって
僕らの「かわいい」をくすぐるモノを作れば成功するのかもしれないけど。

それは置いておいて。

一昔前の「エモい」にも通ずるものがあるかもしれないな、と
自分の学生時代を振り返って感じるところもあるけど。

部活帰りの、ビール片手のコンビニ前。
その場のノリで車を走らせた、深夜ドライブ終着点の海辺。

どれもこれも全部エモい、で片付けていた自分も確かにそこにはあった。

その場を流れる清濁合わせた感情を、ありのまま表現する術を持たなかったんだろうな。
当時はそれで良いと思ったし、そして今も「エモい」と感じる瞬間は誰もが求めているのかもしれない。

でも「かわいい」ってそうではなくないか?と。

エモい、は自分の中の言葉にできない感情の機微を形にしてくれる気がするけど
かわいい、は果たしてそうなのかと、ふと思ってしまった。

原義通りのかわいいは、物事を形容する言葉として使われるもの。
その類語で考えると、僕らはあらゆる物事を十分に表現できるだけの言葉を知っているはずなのに。

「かっこいい」でもなく、「素敵」でもなく、それこそ「エモい」でもない。
なぜか「かわいい」を選び、当てはめちゃう。
便利だし、誰かを傷つける言葉でもないのは確かだけど。
例えば、かわいいよりも、より的確に表現できたら、
それはもっとハッピーな世界なんじゃないかしら

最近はもっぱらインフルエンサーマーケが主流の世の中だけど、
そこでたくさんのインフルエンサーたちが新商品や、
あるいは自分のブランドを紹介してるのは日常茶飯事。

そしてこれでもかと出てくるわけです、「かわいい」って言葉が。

うーん、なんかそれってどうなん?って正直思う。
職業柄ブランディングの仕事もよくするけど、
ブランドって基本的にはディレクターたちが
「こんなブランドにしたい」「それを表現するためにこんなアイテムを作りたい」
が根っこに当然あるわけで。

それをただ「かわいい」と、ましてや消費者が届かない表現の引き出しを持っているはずの
インフルエンサーが「かわいい」と口にしてしまうことの気持ち悪さ。

そして何より、「かわいい」と対象に浴びせる=その対象を褒めている、と認識してしまっている
自分の感性にも絶望した。

良く考えたら、何も褒めてないじゃん。

言葉を持ち合わせていないのか、とりあえず言っておけばいい精神なのか、
棘のある言い方をすると、かわいいで許されてしまう。

そしてそれを許容してしまう、誰でもない、自分自身がかわいそうだと感じてしまった。

本当にたくさんの情報に触れることができるこの社会に生まれて、
常に変化する社会と、情報の波に溺れてしまうこともそりゃあるけど。
だからこそ自分の感性くらいは守りたいなぁ。

最近改めて好きだなと思った茨木のりこさんの詩の一節

そんなに情報集めてどうするの
そんなに急いで何をするの
頭はからっぽのまま

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

これを何十年も前に言葉で表現できるの、あまりにも天才すぎないか?

#1でも書いたことに近いけど、
感情をちゃんと表現できるって今や特殊技能だよな、本当にすごい。
でも、今「かわいいって言わない!」とたった一つのルールがあるだけで、
自分の感情の引き出しをもう一度漁ろうと思えてくる。

もしかすると息苦しいかもしれないけど、
かわいいとしか言えないことに心苦しさを感じるよりは、よっぽどいいのかもなぁ

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