【小説】迷い猫 9
(9)
「また後で連絡するよ。茉莉、あんまり考えこみすぎちゃダメだよ」
友梨佳との電話を終えると、茉莉は部屋の床に敷かれたラグに零れた涙の染みが出来ているのを見つめた。さらに一つ二つと染みが増える。
泣いていたって仕方ない。頭ではそう思うが、現実を直視すればするほど感情がかき乱される。
とろろの居たダンボール箱は無情なほどに部屋の中で存在感を示す。
たった三日間だったが、この部屋の中に生きものの温かみと柔らかさが満ちたことは、茉莉にとって大きな変化だった。
自らの気質が故に、様々なものとの関わりを避けていた自分が、気づけばとろろの事で必死になっていた。
犯罪が関連している気配を感じながらも、立ち向かう勇気をもたらしたものは、あの子猫に穏やかな空気の中で幸せに過ごして欲しいという願いだった。
犯人には憤りを覚えていた。
身勝手な欲望や悪意しか感じられない相手にあの尊い生きものに渡すことは出来ない。
途中から手を貸してくれた弟もその思いは同じだ。
そう、思っていた。
翔太はその後、何度も電話をかけたが繋がらないままとなっていた。何らかの理由で茉莉の番号からの着信に出ない可能性を考え、非通知でもかけてみたが状況は同じだった。
メッセージも何度も送ったが、既読にもならないままだった。
——姉は、直感力の名手だからな。姉だから出来ることはたくさんあるよ。
翔太が昔、何気なく言った言葉を茉莉は大切にしていた。
不安を感じた時はこの言葉を思い出す。
普段は生意気な翔太だが、茉莉が本当に助けを求めているときは必ず手を貸してくれた。
そうだ、翔太は、理由もなく人を裏切るようなことはしない。
気づくと昼になっていた。立川駅から戻ってから数時間が経過していた。
食事をとる気にもなれない茉莉は、リュックサックからノートを取り出した。
警察に行ったときに説明の補足で使おうとしていた時系列を書いたページを開く。そこに、弟が関わっていた箇所を赤字で追記していった。
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水曜日 16時前後
イヨンの1階を出た大通り沿いの側溝で、とろろを発見。
通りかかった友梨佳と救出し自宅へ連れ帰る。
その夜、ソーシロチャンネルで迷い猫の情報提供動画を見つける。
ソーシロに連絡をとり、とろろの写真を送る。
猫の飼い主を名乗る人物から連絡が入る。
翌日16時に、立川駅で待ち合わせて猫を引き渡すことに同意。
木曜日 10時30分
友梨佳とともに大学へ行き、友梨佳の友人たちに会う。
(久美、彩愛、健吾)
健吾さんにとろろを預けて講義にいく。
同日 15時~16時
友梨佳とともに立川駅へ移動。
待ち合わせ場所に現れた人物に不信感⇒逃げる
友梨佳の従兄弟、利久斗さんに助けてもらい逃げることに成功。
同日 20時
ソーシロからメッセージ。
猫を返さなかったことへのクレーム(半ば脅し)
翔太にとろろのことが知られるが、協力を買って出てくれる。
金曜日 8時
ソーシロチャンネルで、猫を返さなかった私たちのことを配信される。
同日 13時~14時半
翔太にとろろを預けて大学へ。
(母証言:大学にいる間に、翔太から猫のことを聞いていた)
大学到着とほぼ同時にSMSがくる。
私が大学に着いたことを監視しているような内容。
とろろを返せなどの具体的な指示はない(単なる忠告? 目的不明)
同日 17時~18時くらい
友梨佳、翔太とともに資産家宅へ。
警察へ届けることを決めた途端に友梨佳に着信。
大学名、自宅住所を把握している
家族などに危害を加えるような内容の脅迫(命令口調)
母から私の携帯に着信があり、翔太が出る。
翔太はその時に母が猫のことを知ったように私たちに話す(なんのため?)
同日 21時
私の携帯にも着信(丁寧口調)
土曜日 8時
翔太にとろろを預けて立川へ。
待ち合わせ時刻(9時)にキャリーをロッカーへ。
犯人側に連絡をするも音信不通となる。
自宅へ戻るが翔太もとろろも失踪している。
翔太、電話・メッセージとも音信不通。
母証言:翔太は自分で家を出ていった。
翔太の自室から、闇バイト募集の告知を発見。
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書き終えて茉莉はため息をついた。これだけでは全くつかめない。
ただ、書いたことによって茉莉の心理はいくらか落ち着いた。冷静になったことで、状況を分析する心境になってきた。
仮に翔太が犯人となんらか関連があったとして、猫を奪うことを目的としているなら、いくらでもチャンスがあったはずだ。昨日の午前中なんて絶好の機会であったし、その後だってその気になればいつでもチャンスがあった。
それに……と、茉莉は時系列を振り返りながらあることに気がついた。
翔太はとろろが狙われる理由を知らないはずだ。
実は翔太も誰かに、脅されているのでは……。そのような考えが、茉莉の頭の中で浮かび上がってきた。
茉莉はリビングへ降りると、母に声をかけた。家を出る前の翔太の様子を聞きたいと考えたのだ。
「翔太が出かける時どんな様子だったか? 別に普通だった気がするけど、なんで?」
「なかなか帰ってこないから、ちょっと気になって」
その茉莉の発言を聞き、母は少々驚いた顔をした後、笑った。
「貴女そんなこと気にするのね?
まぁ今日土曜日だし、女の子と遊びに行ったんじゃない?」
茉莉はもどかしくなった。確かに普段ならそんなことをいちいち気に留めたりはしない。だが、今日はそういう事態じゃないのだ。
「……多分、家にその子連れてきてたのよ。私がちょっと言ったから、それで出ていっちゃったのかも……」
「え?」
「さすがにちょっとビックリするでしょ? お母さんたちの世代だと、そういうのって、親がいないときにコッソリ連れてくるか、もしくはちゃんと紹介する気で連れてくるかどっちかなのよ」
母がのんびり話す息子トークが茉莉の頭には全く入ってこない。
「それで、お母さん、なんて言ったの?」
「そりゃあ……、さすがに部屋に直接行って話したらウザいって思われそうだし、女の子が来てることには気付かないフリをしてリビングから翔太だけ呼んで、ちょっと話したわ。
『あの子誰? 彼女?』って聞いたら、翔太は曖昧な表情で黙るから『彼女でもいいけど、相手にも親御さんがいるんだからお互いに挨拶する前に家に連れ込んだりとかしちゃダメ』って話した。
そしたら『わかった、ごめん』って」
茉莉は静かに心の中で唱えた。
とろろのことがある中、呑気に彼女を連れ込んでそのまま出掛けるようなことを翔太はしない。
茉莉の中でぼやけていたイメージが少し具現化してきた。家に来たというその女の子は、なにか今回の件と関係があるのではないか。
もっと言えば、その子こそが……。
茉莉はそのまま二階に上がると再び翔太の部屋に入った。翔太は何か痕跡を残しているのではないか。
「翔太……ごめんっ!」
茉莉はあえて声に出して一言謝ると再度、翔太の部屋の中を捜索し始めた。
さきほどは遠慮がちに見回していた棚の引き出しを開ける。部屋同様に男子にしては比較的整頓されたほうで、高校のプリントといったものしか出てこない。
こんなことをして、本当に何事もなければ、一生口をきいてもらえないレベルのことだろう、茉莉は再び「ごめん」と口にした。
今はそんなことを言ってられない。
続いてデスクの引き出しを開けてみた。
こちらも筆記用具やらそういったものしかない。
ただ、小箱がひとつ入っていた。昔、父がまだ生きていた頃に家族四人でいった旅行先で買ったお土産だ。懐かしさもあり、茉莉はその小箱を手に取った。
さすがにこれを開けるのは気が引ける。
やめようか、そう思って小箱を戻した。
その後、再び手にかけた。
翔太は女の子を家に連れてきていた。
最近、彼女ができたようなことを言っていた。
内から湧き上がる直感に、茉莉は覚悟を決めた。
翔太が万が一、犯罪に関わっていて警察が来るような事態になれば、この小箱だって捜索されるのだ。
プライバシーの侵害は、土下座でもなんでもして謝ろう。
小箱をそっと開けると中にはプリントシール機の写真が入っていた。
「これ……」
そして、その相手は、茉莉がよく知る人だった。
茉莉は友梨佳に写真とともにメッセージを送った。
〔翔太の部屋から発見した。
母が言うには、翔太は居なくなる前に家に女の子を連れてきてたらしい。
その女の子が、この子だと思う〕
数分後、友梨佳から着信があった。
「見たよ。
茉莉、私も顔見知りの中で一番何かありそうなのは誰か考えたとき、この子のことが浮かんでいた。はっきり言わなくてゴメン」
友梨佳はいつもより少しだけ低い声で言った。
「大学に着いた時にきたSMSの番号を教えて」
番号はその人物のものと同一だった。
「翔太くんもとろろも、あの子の家にいるのかもしれない。今から行こう」
「家、知ってるの?」
「お互い一人暮らしだから、前に泊まったこと、ある。
住所送るから、そこで待ち合わせよう」
電話を終えると友梨佳から住所が送られてきた。
茉莉は母に出掛けると声をかけると、その住所に向かって自転車を走らせた。すでに時刻は2時になりかけていた。
(つづく)
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